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#2390/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 96/ 1/18 3:27 (111) らんま>最後の思い出 Samwyn ★内容 シャンプーの「チチ#^^;」の谷間の2つのタマゴは、すかさず「ラムの角= 惣一郎の墓」でしょう(^^;。それは同時に「エーリク・トーマの羽根」でもあ るはずです(^^)。さて、乱馬はそれを「奪った」わけですが、一体、エーリク の「僕の羽根、いらない。君にあげる」からわかるように、実際には「羽根」 は「『我』を捨てた自己」の象徴に過ぎません(^^;。と言うのは、心はその自 在性において「本来羽根を持つもの」であり、「我」と言う思いこそが「鳥か ご」に他ならないからです(^^;。この「自己『定義』」は「社会の与えたもの ・他者の目を通じて妄想されたる自己」なのですが、それは常に「他者に劣る もの」に在らざるを得ないからです(^^;。 「他者の評価」の「重さ」は、小学生が大学生の数学の「解き」を採点する ようなものだと考えると、事態が判りやすくなるでしょう(^^;。端的に、「人 は自身を超えるものを正しく評価することはできない」のです(^^;。だとすれ ば、「他者に絶賛されること」は、「他者の理解のうちに自己を置くこと」で あり、「他者の『部分』以下に自己をチューニングすること」に他ならないわ けです(^^;。ゆえに、それは必ず「他者との共通項以外の『自分』を『良くな いもの』とし、より普遍相=『当たり前であること』を『良し』」とするので すから、「自己の固有性を束縛し、自ら進んでロボットになること」に他なり ません(^^;。「道徳」が突き詰めれば常に「偽善」へと行き着くのはそのため です(^^;。 「『我』を捨てる」もまた誤解を呼びやすい表現ですが(^^;、「『頭』とい う屋根裏部屋から『降りて』、『心・胸』という庭へ出ること」という表現が 適切でしょうか(^^)。「我」はなお「在り続ける」のですが「それで良い」の であり、要はそれが自分の「部分」そう「他者と共通する『部分』」に過ぎな いことに気づくことにのみあるのです(^^)。 以上のことから、原理的な理由においてこそ、「支配する・される」という 観点に「立った」ままでは「羽根」を得ることはできないのです(^^;、私がす る・しないのではなく、あなたができる・できないの問題なのですから(^^;。 「屋根裏部屋」にこもったままで、その「開かない窓」越しに「風」を感じる ことはできないのです(^^;。同じくそこに集う人々は「庭は危険だ、雨が降る し犬も飛びかかって来るぞ!」と言うでしょう、そこでの暮らしはそれなりに うまく行っているし、何より屋根裏部屋にこもり続けることの「バカらしさ」 に自分の一生のほとんどが費やされてしまったなどとは考えたくもないからで す(^^;。そう、確かに「安全さ」は落ちます、寝ぼけたままでは危険、「より 覚めて在ること」が必要でしょう(^^;。「『愛』というすきま風」に触れたこ とのない人は、むしろ「あなたの良きを思って」あなたの前に立ちはだかるで しょう(^^;、それを突破する「悪辣さ」もまた必要になるでしょう(^^;。 真に優れたもの、「自己を高めるもの」はすべて、「他者に絶賛される」こ とはあり得ません(^^;、もしそうなら、それは逆に「自己を低めるもの」だか らです(^^;。むしろそれは、「無意味・不可解・役立たず」として「社会から は」非難すらされるでしょう(^^;。人をしてそこへ導くもの・それを見出させ るものはただ「愛」のみです。この意味で「ロミオとジュリエット」は過去の 話ではありません(^^;。その両家の「対立」の「愚かしい伝統」は、むしろ社 会というものの「本質」なのです(^^;。 ところで、どうも「葉・根」における「葉」は「=Samwyn」らしきこ とがわかってきました(^^;。「ろ>サム=惣一郎」ですから、例の天道道場の 額「はろい」がその「構造」を物語っています(^^)。 要するに、「はね=Samwyn」「いね=けも先生」であったわけですね (^^;。これによって、「あかね>赤・根>赤は葉」の読みはクリアされること になります(^^;(「ね」だけではいずれかが不明だからです(^^;)。代わる新 たな読みは、「あかね>あXね>あはね」から、「あかね>羽根>Samwy n」とするものになります(^^)(「あ>ろ・むの合成」と読めば「あ・はね」 は「ろむ・ウィング>Samwyn」になるわけです(^^;)。 で、「音無」がここでようやくに活きてきます(^^;。「wyn」であって、 「〜g」「〜d」がない、つまり、「はね」の「ね」に当たる部分が「Sam wyn」というハンドル名には入っていないからです(^^;。その「ね」に響子 で相当する部分が「郷」で、「ういろう」「ウィドウ」からおおよそ検討がつ くように、Samwynの名前では「Sam」の部分がそれです(^^)。そのな い部分は「グ・ド」であり、共通項は「”」すなわち「ラムの角」でもあるわ けで、これまでの読みと明白に一致していますね(^^)。また「悟る>郷・留」 なので、確かに「郷=惣一郎=留」が保持されてもいます(^^)。 「いろは」が「はろい」と逆読みなので、「あかね」「はね」も同じく「ね かあ」「ねは」と読みます。「は・か=X」で、変数と見れば「内容不定」、 ゆえに「ねは>ねX>音無」です(^^)。あかねはもう少し細密で、「あ」を上 記のように「ろ(3)・む」に解凍した上で「ねXむ・3」とし「音無・郷」 と読みます(^^;。すなわち、あかねの名前は「X=無=3」という情報をパッ クして圧縮したものになっているわけです(^^;。この2つにおいて「ね」が許 されているのはこうした操作が可能であるためで、「音無なのに音子」という 矛盾(「音無>おんな」としてS的に表現されるにも関わらず、実体は男」) を表す事態(「音無」なのに「ね>音」がある)だとも言えます(^^;。 ウエディングを「WE>ウィ」「ディング>鐘の鳴る音」と読める気づきに おいて、「Samwynとけも先生の現実的結ばれ」も不意に怪しくなって来 ました(^^;。「あかね=Samwyn」という対応こそが「結ばれ」のS的諸 イメージの指すところであるとも考えられるからです(^^;。おそらく、「いね =けも先生」を検討することで、そのいずれかがあるいは判定できるかも知れ ません(^^;。 「いね>稲:いな>否」で、再び飛鳥 杏華さんに呼応してしまっています が(^^;、これは「飛鳥=Samwyn」を受けて「杏華=けも先生」が生じて いるためでしょう(^^;(「麗=Samwyn」も含んでますね(^^))。「あか ね」に合わせれば「あいね」でドイツ語の「ある・1つの(英語の不定冠詞の 『a、an』)」になります(^^)。「留美=サムウィン」においても「美子= いね」と読めるので、この「いね=けも先生」はほぼ確実でしょう(^^)。「い ね>衣根>いこん>衣谷>裕」も「留美子>ルビコン」と「ジュリアス・シー ザー」からやはり妥当と言えます。「はね>羽根>羽金>羽衣>刃衣>初>う い」が対応するパスでしょう(^^;。裕作が響子に初めて会った時「いいなー、 あれ」と言っているのは、「いな、吾れ」だったわけですね(^^)(「けも先生 =酉」から見て、「華」は「Samwyn=花」を含んでいるのだと読むこと ができ、「(裕作が響子に)話がある」を「花・滋賀・アル」と読んで一応確 認できます(^^;(響子に会うだけで裕作のそれは「満たされた」のですから、 響子自体が「花・滋賀・アル」だったのだと、読めるわけです(^^;))。 「亜美」は、「亜身」が「亜心>悪」と対応し、「流水は悪であった」こと において、「流風=亜美」が導き出せます(^^)。「音無>南無」で「亜美>阿 弥」が入るようですが、これはまだよくわかりません(^^;。どうも、せらむん の「〜野」は「〜でない」と読むようですね(^^;。「月野>日>火」「水野> 火」「木野>響子・明日菜・飛鳥」「火野>水」「愛野>悪」あたりになるで しょうか(^^;。 どうやら、裕作と響子における対応が強化されたことで、「現実的結ばれ」 も(「流水=Samwyn的らんまとしてのSamwyn」という読みととも に(^^;)一応は念頭に置いておいても良いようです(^^)。 Samwyn