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#1314/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QEG72756) 94/ 1/12 7: 1 (169) BD大会>時間の閉塞した世界からの帰還 飛鳥 杏華 ★内容 『ビューティフル・ドリーマー』という作品を目の当たりにしたとき、まず、そ の不可思議な世界に驚きを覚える。だがそれは、いきなり彼らや我々の前に出現し たわけではない。1枚1枚ヴェールが剥されて行くように、徐々に現実世界との違 いが明らかにされて行き、ついに彼らがドタバタを繰り返していた友引町の外縁が 切り断った断崖になっている様が視界に飛び込んできたとき、この作品のスケール の壮大さに感嘆せずにはいられなくなるのである。 このあまりにも見事かつ壮大な仕掛けに、我々は思わずあっけにとられ、つい、 そのことばかりに目を奪われてしまって、意外とこの作品のメインテーマが何なの かを見落としてしまってはいないだろうか? もちろん、単純に見切れる代物では ないが、それを考えることすら忘れてはいなかっただろうか? 私自身、まさにそ うなのだ。では、この作品のメインテーマとは、そもそも何だったのだろうか? 時間的に閉塞した世界(時計のモチーフ) この作品において、彼らが学園祭前日のドタバタや遊び放題の毎日を繰り返して いたのは、ラムの夢の世界である。この世界では、タクシー運転手に姿を変えた夢 邪鬼の台詞にもあったように、時間はまるで意味をもたない。時間がないと考えて もよいだろう。 もちろん、彼らにとって1日という単位での時間の推移は認識されている。朝に 目覚め、昼間に遊び、夜に眠る。だが、その推移さえも1日という莫然とした単位 として彼らに認識されているだけあって、各々にとってはおよそいい加減なものと なっている。いい例が、友引高校の時計塔の鐘が鳴ったときの各々の反応である。 パーマは「もう昼か」と言い、メガネは「10時のおやつまで我慢しろ」と言い、 しのぶは「あなたたち、さっき下の浜茶屋でお昼食べて来たじゃないの」と言う、 といった具合である。 そして、翌朝になれば彼らは前日のことを忘れ、同じ(といっても合同ではなく 相似形であるが)1日を繰り返すのである。言うなればこの世界は、1日という莫 然とした単位で時間的にクローズされていると言ってよいであろう。 それを実に巧みに表現しているのが、友引高校の時計である。作品の冒頭から、 この時計には「故障」と書かれた大きな札が掛けられていた。先例のシーンでも、 「あの時計は、ずっと以前から故障しとろーが」という台詞がある。そして、夜の 友引高校探索で彼らがドタバタを演じたとき、この札がずり落ち、この時計には針 が存在しないことが判明する…。 ここにおける「故障」、「針がない」という事実は、この世界の時間が閉塞(あ る意味で静止)していることを表すモチーフとなっているのである。逆に、あたる が帰還した彼らの現実世界では、この時計の針が動き、鐘が鳴り響いて彼らを目覚 めさせている。時間的に閉塞したラムの夢の世界と時間が流れている現実世界…。 このコントラストが壊れた時計のモチーフによってさり気なく、だが、実に緻密に 計算され、表現されているのである。 閉塞した時間の意味(アジール空間とコミュニタス) さて、このラムの夢の世界において時間が閉塞していることの意味は何であろう か? 彼らは、前半部においては学園祭前日という同じ1日を繰り返し、中盤以降 においては遊び三昧の日々を繰り返す。それは夢の主であるラムにとって、とても 楽しいことであり、まさに「夢」なのである。これは、何もラムに限ったことでは ない。一緒に遊びまわっている面々にとっても、同じことなのだ。 彼らの大半は高校生(17歳)であり、身体的には、ほぼ大人の容姿を形成しつ つあるが、精神的、社会的には未だ子供としての部分を留めている存在である。言 うなれば、大人と子供の境界に位置する存在なのである。 民俗学者の大塚英志氏は、文化人類学者ヴァン・ジェネップ氏の通過儀礼の三段 階のプロセス「分離→移行→統合」を用いて、こうした時間(年代)を「子供の時 間から<分離>され、やがて大人の時間に<統合>される間の<移行>の時間(コ ミュニタス)である」と指摘している。そしてまた一方で、外界との関係において、 自由、無縁でいられる空間を西洋社会における縁切り寺的空間に例えて「アジール 空間」と呼び、その具体例として、あだち充作『タッチ』における勉強部屋、高橋 留美子作『めぞん一刻』における一刻館を挙げている。 このうち、『めぞん一刻』は同様の時計のモチーフが使用されているという点か ら見て実に興味深いものがある。一刻館の壊れた(止まった)時計が一刻館内にお ける時間の閉塞(静止)を表現しているというわけである。この一刻館において、 五代と響子の関係がなかなか進展せず、「誤解→危機→落着」の繰り返しが続いた という様は、この『ビューティフル・ドリーマー』におけるラムの夢の世界での繰 り返しと共通するものがあると言えるのである。いや、むしろ『ビューティフル・ ドリーマー』におけるラムの夢の世界は、コミュニタス的時間に閉ざされたアジー ル空間そのものであったと言ってもよいであろう。 大人になること(現実世界への帰還) 彼らは、そのアジール空間で永遠のコミュニタス(移行)の時間を享受する。こ こに留まる限り、彼らは授業を受ける必要もなければ、宿題に頭を痛めることもな い。毎日、ドタバタと遊び暮らしていても、衣食住の心配もなく、別段とがめ立て る人もいない。そして、時間が進まない以上、彼らは永遠に大人になることもない のだ。すなわち、彼らは社会的責任から永遠に無縁でいられるわけである。 『めぞん一刻』における時間の閉塞が、響子の「再婚に対する躊躇」によって支 配されていたように、このラムの夢の世界はラムをはじめとする彼らの「大人にな ることへの躊躇」によって生み出され、支配されていたと言ってよい。この世界に おけるラムの本体ともいうべき存在が幼女の姿で描かれたのも、このことと決して 無関係ではなかろう。 だが、一見彼らにとって理想的とも言えるこの世界から、あたるは自らの意志で 強引なまでに帰還を果たすのである。時間が流れ、彼らをいやおうなしに大人の時 間へと押しやる現実世界へと…。そして、夢の世界を語ろうとするラムを制して、 彼は言うのである。「ラム、それは夢だよ。それは夢だ…。」 ここに『ビューテ ィフル・ドリーマー』のメインテーマが描かれている。「夢から現実への帰還」で ある。夢はいつかは醒めるもの。いつかは、夢から醒めて現実に立ち戻らなければ ならない。すなわち、いつかは大人にならなくてはならないということである。 もう、ここまで書けばわかるであろう。ラムの夢の世界で遊び暮らしていた面々 とは、実はアニメという夢の世界で疑似体験に明け暮れている我々アニメファンの ことであり、「ラムの夢の世界」と「彼らにとっての現実世界」との関係は、その まま「アニメの作品世界」と「我々にとっての現実世界」との関係を写す鏡だった のである。 ラスト付近でラムが電撃を放った際、友引高校の校舎が現実に戻ったあとなのに もかかわらず3階建てで描かれ、これに対して監督の押井 守氏が「わざとです」 と答えたのは、彼らにとっての現実世界、すなわち、『うる星やつら』の作品世界 もまた夢の世界に過ぎないことを暗に示唆したものであり、こうした作品の構造を 見抜かせるためのさり気ないヒントであったと言えよう。 と考えると、「責任とってね」というラムの本体ともいうべき少女の台詞もまた、 より意味深なものとなる。すなわち、夢(アニメ)から醒めて現実世界に復帰した ならば、きっちり社会的責任を果してくれということ、また、そういう大人になっ てくれということなのである。そういう意味からすると、ラストのスタッフらしき 人物の言葉もまた辛辣だ。「(大人になりたくないなら)一生やっとれ!」という わけである。 「現在、アニメの世界でコミュニタス(移行)の時間を享受している若者よ。い つかは現実世界に戻り、大人にならなければならないときが来るのだ。永遠に夢の 世界に逃避、埋没してはならない。そのことを心に銘記せよ。」 我々にとっては、いささか耳が痛い言葉ではあるが、まさにこのようなメッセー ジがこの作品には込められていたのである。 卒業宣言 さて、ここに至って1つの疑問が生じる。「夢から現実への帰還」をうたった押 井自身は、むしろ「夢」の作り手ではないのか? その押井が、なぜ自分の作る夢 からの帰還を訴えるのかという疑問である。 確かに、押井氏は「夢」を作る側の人間であり、押井氏こそが夢邪鬼であるとも 言える。あまりにも斬新な手法ゆえに、何かと周囲からの風あたりが強かったこと を考えると、「最近は人間関係に悩むことが多くてね。ぼくってナーバスなのかな ぁ」という夢邪鬼の台詞は、ほとんど洒落になっていない。作品後半における夢邪 鬼の独白は、ほとんどそのまま押井氏の独白と考えてもよいであろう。 だが、押井氏は「結果として、ぼくらのやっているのは、言ってみれば自閉症児 に恰好の鏡を与えているだけなんだろうと思います」と、当時のアニメージュの記 事において言い切っている。すなわち、アニメと現実の違いを認識しようとせず、 すべてをアニメによる疑似体験ですましてしまおうとする若者たちの存在に気づい ていたからこそ、「夢」の作り手という立場にありながら、その危うさを訴え、現 実に戻ることの重要性を描き込むことを最初から計算していたというわけである。 夢邪鬼が盛んにあたるを夢の世界に留めようと誘惑する様は、まさにその危うさを 感づかせるための逆表現であったと言えよう。そして、自らも帰還を果たすべく、 押井氏はこの作品において『うる星やつら』からの卒業宣言を発したのである。 作品の最後で夢邪鬼は「あの人らとつきあうのは並大抵のことやおまへんで」と 言って去って行く。これは押井氏自身の『うる星やつら』からのひと足早い卒業宣 言ではなかったろうか? このラストに至って初めて作品のタイトルが掲げられ、『うる星やつら』の看板 を掲げた友引高校の校舎が次第に遠ざかって行き、最後に視点は完全に校門の外に 達する。これはまさに『うる星やつら』からの卒業をイメージしたものであると見 ることができよう。 この作品が発表されて間もなく、押井氏は『うる星やつら』のチーフ・ディレク ターを降板し、文字通り卒業して行くことになる。『ビューティフル・ドリーマー』 は、まさに押井氏の答辞であったと言えるだろう。そして、次に卒業するのは君た ちだとばかりに語りかけてくるのである。 「責任とってね」 と…。 QEG72756 飛鳥 杏華