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投稿日時:1994/ 1/31 20:39 投稿者ID:QKM33822
#1407/3141 るーみっく☆わーるど
★タイトル (QKM33822)  94/ 1/31  20:39  ( 94)
BD大会>バランスド・ダンシング SAMWYN
★内容
  ☆はじめに
 前回ではあまり突っ込めなかったユング心理学的解釈を軸に、私のBDに対
する最終的な読みを書きたいと思います(^^)。

  ☆ポイント
 まず、水は象徴心理学では「女性原理・無意識」を表わします。そしてBD
では校舎が対立項として置かれているわけですから、それは「男性原理・表層
意識」を示すシンボルになります。なお、以下の読みでは、「現在」はBD公
開当時を意味するものとして下さい。

  ☆読み
 さて、ここでは主人公を「M」とします。彼は押井監督であり、夢邪鬼であ
り、そして私たち観客でもあります。彼は現在、「うる星やつらはあたるとラ
ムのラブ・ストーリィ」と考えています。つまり、彼は「時間的発展」派の1
人です。

 オープニングは原作うる星やつらです。それは、どう見ても「無時間的永遠
性」の話のように見えます。あたるはひたすらバカばっかりやっており(ほう
けており)、ラムや面堂たちはそれぞれが勝手に遊び回っているだけです。

 そこで、Mは時計が「故障中」なのだと考えて話を読まざるを得ません。彼
の反対派は「うる星やつらが無時間性なのは、それがラムの幸福だからだ」と
言いますが、彼はうなずきはしても、本当にそうなのか疑問に感じています。

 しかし、理性的に解釈しようとしても校舎が2階なのか3階なのかすら彼に
は決められません。2派の間にあって、彼の疑問は増大するばかりです。空間
ばかりか、頼みの綱の時間的継続性すら原作では無視されているのではないだ
ろうか? では、やはりうる星やつらは反対派の言う通りの、ただキャラが魅
力的なだけのありふれたギャグマンガなのだろうか?

 そこで、Mは1度はどっぷりその反対派の主張する考えに浸ってみます(あ
たるが水たまりに沈むシーン)。そこで彼が感じたことが、例の風鈴のシーン
なわけですが、結局彼はそれは「虚無である」として退けます(あたるは再び
学校のプールへと戻ります)。やはり、彼にはうる星やつらはその程度の作品
とは思えないのです。

 その間にも、彼の疑問は極限にまで達します(温泉マークの疑問)。もはや
耐え切れなくなった彼は、ついに様々な状況を生み出してうる星やつらを「試
す」ことを始めます(サクラ、行動開始)。ところが、何と驚くべきことに、
うる星やつらはまるでアメーバのようにどんな状況ともフィットしてしまうの
です(校舎の異変)。もう思想も理論も通用しない(温泉マークと錯乱坊の失
踪)、そう感じた彼は、とにかく1度離れた立場からうる星やつらを捕らえ直
そうとします(ハリアーで脱出)。そこで、突然彼は気づいたのです。これは
うる星やつらがどうこう言う問題ではなく、けも先生の世界観を理解出来るか
どうかの問題なのだと(亀の上の友引町。「かめ=けも」)。

 けも先生は女性であり、Mは男性である。今までそこに気づかなかったので
す。そこで彼は、今度は自分をラムに投射して、女としての立場から原作を読
み直して見ます(サバイバル・シーン。なお、これは男であるMにとっては、
子宮に戻ることと同義です)。

 そこで、彼は次のことに気づきます。「ラムがこうした無時間的永遠性の状
況を喜ぶはずはない。彼女はあたるの愛を勝ち取り、独占したいはずなのだか
ら」と(しのぶと竜之介の失踪)。つまり、無時間的永遠性は「ラムの望む生
活」ではなかったのです。では、誰がそれを望んでいるのか? そう、それは
あたるです。

 あたるはなぜ無時間的永遠を望んでいるのか? 彼はラムと結ばれたくない
のだろうか? こうしてMは夢邪鬼となり、あたるへの徹底的なテストを開始
します(あたるの一連の夢)。ラムはあたる、お前にとってどんな存在だ?
ラムがいなくなったらどんな気持ちだ? それでもお前は他の女を追いかける
のか?

「好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ」

 そう、あたるはラムを男と女ではなく、1人の人間、生涯をともに生きる者
として愛していたのです。そんなラムを「女」として愛することは、あたるか
らすれば「ラムの半分しか愛してない」ことになる。男と女の愛は結婚という
形で完成しますが、人と人の愛には終わりはありません。日々愛し、日々別れ
て死ぬまで新鮮な愛を保ち続けます。永遠の時間的発展性、それこそがうる星
やつらの本質だったのです。

「責任、取ってね?」

 それは、女にとっては最高の愛である、今は女でもあるMはそう感じます。
自分がおばあさんになっても、生まれ変わって男になったとしてもこの人は必
ず自分を愛してくれる−−−だから、今は彼女であるMはたった1つの約束で
満足します。「その愛、貫いてね?」と。

 こうして真の答えを得たMは、新たな命とともに生まれ変わります(海から
墜落するあたる)。そして、これまで自分が思い込んで来た「(ただの)時間
的発展性」も結局は反対派と同じ、自分がうる星やつらに押しつけた夢である
ことを理解します(キス(?)シーン。あたるは明らかに先の言葉と矛盾する
行動を取っていることにご注意下さい(^^))。

  ☆終わりに
 このように、BDは押井監督が歩んで来られた「うる星やつらを理解した道
程」を再現することによって、ファンに新しいうる星やつら観を見出だしても
らおうとした「福音」だったのです。しかし悲しいことにファンの方々は理解
することなく、押井監督はやむなく自らを十字架に託す(アニメうる星やつら
から降りる)ことで、BDがファン批判である意味を自ら体現なされたのでし
た。これが今、私の理解するに至ったBDの意味です。

SAMWYN
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