![]() |
#1567/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (XGM38132) 94/ 4/14 19:23 ( 42) 雑感>RE#1564 時の流れと言うものは… by阿修羅 ★内容 時の流れと言うものは、どうにも留めようが無くて、人がどう思おうなんて物には 関係なく、静かにしかしこれでもかと言う位の勢いで、行き過ぎて行ってしまいます 。10年という年月は、たかが10年ですが、それでも、その間に流れて行った時間 の量と言うものは測り知れません。流れて行った時間がどういう形でどの様に蓄積さ れているのかは、それはそこ、皆さんの心の何処かにそれぞれの思いと共に様々な形 で、やはりそれぞれの方法で、でしょう。 どんなにあがいても過去と言うものは絶対に返っては来ない訳で、ただ一つ許され る行為はそれを振り返る、という実に狭く、掴み所の無いものとなります。 例えば、ある作品を読みそれに感動した時、その感動をずっと憶えていたい、とい うのは、それ程特殊な思いではなく、ふとある瞬間に数多く感じるものです。作品そ のものは、有形の物であり己の心理とは別の、意思の集合体にすぎません。時が経っ てもそれ自身は、それこそ自分という命のある範囲においては、永遠に存在し続けま す。しかし、いつかある瞬間に感じた感覚と言うものは、恐らくはもう二度と感じる ことは出来ないでしょう。それこそが、真の意味での時間であり、記憶であり思い出 でであるのです。 思い出に浸る、と言うのは、過去のある記憶を元にその時に感じたのと同じ感覚に 耽けるというものではなく、その感覚を感じたという自分を振り返る事だと考えます 。時計坂駅やその町並み(のモデル)が失われて行くことも、ある意味では思い出と は関係が無いかも知れません。ただ、その事の影響するであろう物は、思い出その物 ではなく、それを探るための鍵が、また一つ失われて行く、という事だろうと思いま す。時計坂の思い出がまた少し、深いところまで行ってしまう、そういう事でしょう 。 今、その失われ行く時計坂駅を偲ぶ人は多いと思います。そして、偲ぶ、その感覚 自身がまたいずれ思い出となるでしょう。たった一つの作品を通してこれほど沢山の 思い出を持つことが出来る。そしてそれを可能にしてくれる「めぞん一刻」という作 品に、改めてその素晴らしさを感じ、そしてそれを作り上げた、高橋留美子その人に 敬意を表し、そしてこれは僕の思い込みかも知れませんが、めぞん一刻の背景ともな った今と言う時代に、何か感謝に近いものを、思わずにはいられません。 最後に、たとえある意味実物としての時計坂がなくなったとしても、一刻館は、時 計坂は永遠です。本物の時計坂も一刻館も、それは僕の、そしてこの物語に魅せられ た人々の心の中に在るものだから。 94/4/14 by 阿修羅 《後記》 あ〜ぁ、なに言ってんだか(;)。心の中に在るって、んなこたぁったりめーじゃねー か。いんだよなんでもそんな事は。要するに時間が経ったんだなあって、そんだけの こっちゃねーか。ちゃんちゃらおかしーぜ。 と、言う訳で、後で読んで我ながら赤くなってしまいそうな文章でした。