![]() |
#1749/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (YUD09175) 94/ 7/ 6 23:26 ( 76) 考察>「流言」の効用 マッシャ・アッキーニ ★内容 デマ発生のメカニズムというのは何とも面白いものです。 A→B:「私は乱馬くんは男も女も同じくらい好き」 B→C:「Aは両刀使いだそうだ」 C→D:「Aは男が好きらしい」 D→A:「おまえ、ゲイだったのか?」 というように、「〜そうだ」「〜らしい」が抜けていって、しまいには確実な 話になってしまう。「Aは〜かもしれない(想像)」となるとき、Aさんは火の 元ですらありません。「伝言ゲーム」的な面白さと言えます。ときどき「デマ」 の方が物事の本質を突いていたりするのも面白いです。当事者にとっては迷惑以 外のなにものでもありませんが。 「デマ」の語源はドイツ語の「デマゴギー」で、元々は大衆を煽動するための ものだったそうです。根拠のない噂のことを「デマ」と言うとき、そこには「捏 造」「悪意」といった、否定のニュアンスが認められます。しかし困ったことに 人間はそういうものが大好きなのです。 るーみっく作品も、こうしたモチーフには事欠きません。 「なんの話だっ、そりゃ確かにおめーの胸は小さいが…」 →「××××××おめーの胸は小さい×」 →「でも乱馬喜んでるわよ。でかい胸好きみたいだし…」 (興味のない事柄は耳に入っていない(^_^)) 「変態じゃない?」「(ひそひそひそ)」 「間男だそうですよ」「ほおっ」 (確かにそのようにしか見えない) 「実は今朝…」「寝小便したっちゃ。」 「先生を。」「腹いせに。」「再起不能に。」 (「リュウゲンビレア」によって「流言」に尾ヒレ が付いています。噂に翻弄される人間の可笑しさ ですね) 『めぞん一刻』は「誤解」によって話が展開しますし、『らんま1/2』に至っ ては、最後まで誤解したままというケースさえ見られます。 さて、「流幻沢・飛御の森」という地名には「批判」が込められている、とい うaltjinさんの指摘は、確かにその通りだと思います。ただ、 > そこで起こることはほぼすべてが「デマとそのなぞり」のは > ずであり、それは最後には否定され、「これこそが真実である」何かが示唆さ > れる、そのような方向付けで話を作るだろうと考えられます。そして、真之介 > 編はまさに「それ」なのです。 というのは果たしてどうでしょうか。「流言」によって、どんな形であれ「世 界」が活性化されるという事実を見逃してはならないと思います。単に「デマは やめてくれ」というように解釈すると、却ってイメージを固定化してしまうと思 うのです。むしろこうした現象を、けもさんがより高次のレベルで描いていると 見た方が、私にとっては面白いです。 真之介編が掲載され始めた頃、私は「飛御の森」が、まるで「らんま1/2と それを取り巻く状況」のように見えました。はっきりとそう自覚した訳ではなく、 「何か奇妙な、どこかで感じたことのあるイメージ」と思っただけでしたが、私 をそう感じさせたものの正体が2週目に判明しました。 「うーん。何なんだろーなぁ、こりわ」と思いながらごろりと横になったとき、 本棚の中の、ある雑誌の背表紙が目に入りました。そこに描かれていたのは、 「カモノハシ」でした。つまりその雑誌とは「ファンロード」です。 かつて「ファンロード」で、「最終回予想」のようなコーナーがあったのを覚 えておられるでしょうか。その第1回は「らんま1/2」でした。ここで挙げら れた「あかねの料理が上手くなって終わる」「あかねが男になる」などのイメー ジが、真之介編のものと一致しています。だからあのカモノハシは「ファンロー ド」だと言いたいわけじゃないですが、「ファンロード」といえば「デマ」です よねぇ。私がそこから連想した、ということです。 当時『PATLABOR THE MOVIE』に傾倒していて、「2」という数字に異常に反応 してしまっていた私が、麝香王朝編と真之介編を読んで、altjinさんの挙 げられたような対応について、一部の連中に得々と触れ回ったのは言うまでもあ りません(あの、芋づる式に湧いてくる感覚は何とも言いようがありません)。 今より輪をかけて「らんまちゃん×良牙くん」派でしたので、この部分について の考え方はaltjinさんと驚くほど似ています。違うところといえば、私の 場合は真之介編を「デマ」のシミュレーションとは見なかったということくらい ですね(言うなれば、そこが大きな違いですが)。 私が『らんま1/2』の元型がどーのと考えるようになった動機は上記のよう な経験から来ています。お解り戴けたでしょうか。 マッシャ・アッキーニ