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#1994/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (VGJ14895) 94/12/30 1:42 (147) 考察>(「なびき対火車王編」:その1) 雨宮伊都 ★内容 (これは、『そると』9号の「特集 天道三姉妹」の末尾を飾る?はずでした。) ※[]の中のひらがな・カタカナ文字は、本来ルビすなわち読み仮名として[]前の 文字の傍らに振られるべきものです。 真実を告げる虚偽[いつわり]−−なびき妄想、再び(その序説的断片) 雨宮伊都 …………お洒落な見栄だと人は言う、僕がわるいと人は言う、やたらに本性を示した り、気ちがい沙汰だと人は言う。 …………どうぞ皆さんご自由に。解るようなら解って下さい、《僕という人間は虚偽 [いつわり]だ、真実を告げる虚偽だ。》 ジャン・コクトー『赤い包み』(堀口大學 訳) I ヴェイルを脱[と]らぬイシスたち−−或いは天道家三姉妹釈義 いやァ良うござんしたねえあれは。なにがってホラもちろん、『らんま1/2』単行本第 29巻所収のなびき対火車王編(仮称)、このシリーズで初めて堂々主役を張った、われ らが天道なびき嬢の活躍ぶりがに決まってるじゃないですか。さすが自ら「金の奴隷」 と豪語し、天道家の家計を支えてる女の子だけのことはある。地獄の10円勝負に勝つた め、火車王金之介にとうとうタダでパラシュートを渡さなかったあの、全くコワいほど の非情さ! いや、あすこまで徹底すると痛快でさえあるな。改めて深く惚れなおさせ られちゃいました。ゴッド・セイヴ・ザ・(借金)クイーン!! ……冗談はこの辺までにしておきましょう。実は右の文章、私自身の感想をほとんど 含んでおりません(「改めて深く惚れなおさせられちゃいました」を除いて)。あのシ リーズをお読みになって、「なびき=非情で強[したた]かな守銭奴」の感をいっそう 強くされた方がどうやら−−というか案の定!−−多いようなので、ちょっと試みにる ーみっくファンの声を、折りにふれページを繰った同人誌・商業誌中から拾ったり、あ るいは自身その場で直接聞いたりして集め、まとめてみたものです。書いていて厭気が さしてきました。皮相的に浅薄に単純におのが見たまま聞いたままを信じこむ、(あえ て言ってしまえば)この心根のおめでたさ……。 そもそもわれわれ読者は、少なくとも作中人物たちよりは高次元のところに位置し、 単身にして一つのみならぬ視座から、物語の展開を観察しわたせる存在であり得るはず。 にも拘わらず彼女に対し、あかねや乱馬たちの抱いたと同じような見解しか抱けないら しい人が目だつとは、これでヴィジュアル世代−−見るだけで考えぬ世代の謂[いい] でもなし−−を代表して生きているつもりならば、あまり情けない話ではありますまい か(しかも「『映像』は『文章』よりも人に訴えかける力がある」などとしたり顔で説 いてくださるのが、えてしてこの種のご仁とくる。この二者は本来優劣をつけがたく、 前者が後者に優る情報伝達メディアのごとく感じられるのは、恐らく単にわれわれ当代 人の想像力が、悲しいかな、とみに衰退の傾向にあるというだけのこと)。 私は、「天道なびき非守銭奴説」を唱える一人です。固[もと]よりなびきイコール 守銭奴の観方については、これを積極的・絶対的に裏書きするファクターが原テクスト 中に、果たして存在しているのかどうか。これは原作における彼女の、「五枚一組三千 円」を端緒とするあくまで外見上、金銭に対して執着的な言行、その上べの面白さにし か着目しえぬゆえの類型的・通俗的な拡大解釈と見るべきでしょう。さらに、この誤解 釈に基いてオリジナルを「膨らませた」つもりらしい、ありていは無節操にちかい形で 表現され続けているアニメ版の彼女の言行が、原作版・アニメ版の両者を劃然と区別で きない人々に、いっそう歪んだなびき像を抱かせる働きをしています(「原作は原作、 アニメ版はアニメ版で別物。原作の論考をするのに、アニメ版に対しての批評を持ちだ すのは見当外れだ」という、いかにも物の分かったような意見も耳にしますが、アニメ 版は別物と呼ぶくらいなら寧ろパスティーシュ−−模作あるいは贋作−−かパロディと 呼ぶのが適切であり、原作を考察するうえでのアニメ版との比較対照を無意味とされる 向きは、パスティーシュやパロディは良くも悪しくも原作へ捧げたオマージュであると 共に、結果として原作に対する一種の批評ともなってしまっているものだということを お忘れか、初めからご存じないかのいずれかなのです。しかも「原作とアニメは別」と 言いつつ、そのじつ滑稽にも、覚えず両者を混同しておいでの方が多いのではないでし ょうか?)。 私の考えるに、なびき自ら称するところの「金の奴隷」としての顔は、いわば偽悪的 自己韜晦のヴェイルを被ったものにすぎないのです。そのヴェイルで彼女はおのが素顔 を不断に巧妙に用心ぶかく覆いかくしており、容易なことでは他人に見せぬよう、見ら れぬようにしている。不断なる自己韜晦のヴェイル−−ある時これが、無理ならぬ感情 の昂[たか]ぶりゆえに刹那めくれ、危うく素顔を覗かせかけたことがありました。の みならず、さらに後日などはずり落ち切って、完全になまの自分を露わにしてしまった `` のでした。前者が乱馬ミーツ・マザー編(単行本第22巻)、後者がひな子先生家庭訪問 編(第27巻)です(もっとも、後者とて本人がそれと悟るまでの一定時間のこと、しか も恐らくは読者のみの認めえたところなのですが。詳しくは『そると』第8号掲載の拙 稿、「Nabiki Unveiled−−私のなびき観、あるいはなびき妄想」をご 一読ください)。他から素顔、赤裸な心を遮蔽するヴェイル。仮面と呼ぶも、さてはま た心の鎧(笑。古いですね)と名づけるもよし。仮面被り、心の武装という点では三女 あかねも、かつて早乙女乱馬と出逢う以前は同じでした。あかねの精神界においての仮 面は、けだし乱馬の「笑うとかわいいよ。」(第2巻PART.1)との一言によって 脱[と]りのけられたのです。そしてありのままの自分がいっとう魅力的に輝くのだと 自信できず、素直な情動を無理やり抑えつけ、「(かすみ)おねえちゃんみたいに」い かにも乙女さびた、落ちついてしとやかな感じを外見より与えうべく長く伸ばしていた 髪が、物質界においてずっと心の仮面、魂の拘束具を象徴ないし反映するものであった とすれば、乱馬の救済的一言ののちほど経ずして、事故という形で断ち切られたのもむ べなるかな。そしてさらに、次女・三女からの類推によって言えば、自己韜晦の点にお いては長女かすみもまた同じ、いや事によると、あるいは次女以上にそれを厳しく徹底 させたあげく、ほとんど無意識裡に行ってしまえるほどの域に達しているのではありま すまいか。ただ、長女のヴェイルは家庭的・慈母的・(時に軽率にもナチュラル・ボケ と呼ばれるように)極楽トンボ的な色彩を帯びているのが次女と異なるだけで。次女の を黒のヴェイルとして、長女のは白のヴェイルに喩えられましょう(前者の偽悪的なる に対して、後者を偽善的とまで形容するつもりはありませんが)。かすみは激しいレヴ ェルの情動、感情の起伏がいつもその顔から窺いえない、という事実を私は特別視する のです。ことに単行本第29巻所収の「邪悪と豆の字」において、鬼にとり憑かれて悪行 をはたらいた時の長女の顔、ポゼスト状態にしてなお、つね日ごろと変わらずおだやか で優しげで笑みやかだった、あの表情を想いおこしてください。他の鬼憑者たちの容子 [ようす]と比べみて、奇異の念が湧いてはきませんか(ついでながら、なぜこの事件 になびきが登場させられなかったかといえば、偽悪的韜晦者に、本当に悪を行わしめた のでは洒落にならないからだと思います。もう一つ、韜晦者として姉とあい通ずる彼女 がつぎの話のヒロインに他ならぬのだと、その不登場によって一種暗示的に予告されて いたのやもしれぬ、とも。……あ、こりゃあと知慧ってヤツでしたね)。 陰秘学[オカルティズム]では、古きケムの国の女神イシスはおのが顔を覆うヴェイ ルを剥がれたとき死す、と伝えています。さて、天道家の神秘なイシスたち(まあ人に よって、「どの辺が神秘でどの辺が謎だ?」と首を傾げられるだろうこと重々承知です けど)、読者諸氏のうちには女神よ菩薩よと讃えられる方もおいでの−−と思っていた ら、つい最近初めて原作『らんま』テクスト中で、実際に菩薩に喩えられた(サンデー 本誌第49号掲載「かすみさんが怒った」。今この話について詳説する時間的余裕の私に ないのが憾[うら]みです)のはまこと意味深長な−−長女や、以前悪魔−−とはむろ ん異教の側では神たりうる存在なれば−−の装いで原作の扉絵に描かれもした次女は、 一体いかなる理由あって、自己韜晦のヴェイルを日常被りとおしておらねばならぬとい うのか? 彼女たちにとっておのが本性の露見は、生命に関わるとまでいわね、少なく とも日々の生活に破綻をきたす惧[おそ]れがあると意識されるものなのやもしれぬ、そ う感じられるほど徹底した次女の演技(かつて武室高利氏が、『そると』6号のなびき 論において「見得[みえ]」と呼ばれたところの)に、長女のおトボケ(「ボケを演ず る・装う」の謂。「ボケ」そのものに非ず!)。私からはひとつ示唆しておきます−− 幼くして母親に死に別れたことが、それ以後の特異なライフスタイル決定=制約?の契 機となったのではないでしょうか。母との永訣が娘たち三人の心に落とした影の濃さを、 またそれぞれが早くより背負わざるを得なかったもの、ないし、背負わねばならぬと自 ````` ````` 覚したものの重さを考えてみてください(『らんま』はコメディ作品だけど、それでも ``` それなりにね)。くわえて因[ちな]みに、自己韜晦とはおのれの弱さを見せまいとす る心の防禦である、といった説が世には行われてもいるのです……。 「いずれ来るべき時がくる」と彼は言うのだった。「吾人[ごじん]が皆、おのがヴ ェイルをはずして捨てさるだろう時が。誤解しないでおくれ、いとしい君、僕がこの一 片のクレープ布をそれまで着けているとしても」 「貴方[あなた]は話すことも神秘めいているのね」若き婦人はいい返した。「せめ て言葉からはヴェイルを脱[と]りのぞいてちょうだい」 「エリザベス、そうしよう」彼は言った。「僕のたてた誓いにおいて許されるかぎり。 さてこころ得ておくれ、このヴェイルは表象であり徴[しるし]であり、僕はこれを常 住着けていないわけにはゆかないのだよ、光のなかでも闇のなかでも、孤独でいても衆 人環視にさらされていても、見知らぬ人のまえ同様、よく知った友人たちのまえでも。 必滅のいかなるものの眼 [まなこ] とて、これが除かれるのをみることはない。この陰 鬱な覆いで、僕は世の人すべてから遮絶されねばならない。それはたとい君であっても、 エリザベス、決してこの裏側に入って来られはしないということなんだ!」 「貴方どんなやり切れない不幸にみまわれたの」婦人は真剣になって問いただす。「自 分の両目をこんな風にくらく覆ってしまうなんて?」 「これが喪章であるとすれば」フーパー氏は答えた。「おそらく僕はほかの必滅なる 人間の大半のように、かずかずの暗い悲しみを抱いているのだろう。黒ヴェイルの象[か たち]で表わしてよいほど暗いのをね」 ナサニエル・ホーソーン『牧師の黒い面布[ヴェイル]』 (その2へ続く)