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#2241/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 95/ 6/23 0:10 ( 90) 感想>今週のらんま「乱馬vs小夏」 altjin ★内容 4.5円は減税の戻しだったのかも知れなひ(^^;。まあ、そのうちわかること ですが(^^;。「夜の鼓動に触れる」(西谷修著・東京大学出版社)やら「近代 性の構造」(今村仁司著・講談社選書メチエ1)やら、ようやくにしてポスト モダン系の思想へと踏み込みつつあります(^^)。ヘーゲルの「絶対知」は、つ まりは「理性=世界」の境地であり、「理性=人間」を超越してしまっている こと(人間であることを否定しない限り、その最後の飛躍は不可能)、そこか ら生じるのは「超越者の価値観」であって「現存在の価値観」ではないこと、 それがゆえに、政治も経済も学もおよそすべての「理性志向運動」はある時点 で必ず人の手を離れ自動化し逆に「超越者より劣る」人間を支配してしまうこ と等がそうした読書の過程で自ずと見えてきました。そうした理念における教 育は「超越者への絶対的帰依」と「ルサンチマン(弱者的恨み)」を育んでし まうわけで「理系がカリスマに弱い」理由もここに見出せます。マルクスもま た、「個が最初にあった」という「神話」につまづいて「あくまで『基盤』で あるべき『社会』を絶対目的化してしまう」という「逆立ち」をしてしまって いたように見えます。 ニーチェが見抜いたのは「最高理性は必ず人間を超越してしまう」と言うこ とであり、その意味では依然ヘーゲルの「枠」の中にいます。「理性は必ず最 後には超越者を待ち望む」わけで、ヒトラーやスターリン(マルクスも基本的 にはヘーゲル系の思想家です)はまさに「念入りに用意された舞台に担ぎ上げ られたペトルーシュカ(操り人形の名前)たち」であったと言えるでしょう。 ポストモダンの理論家の1人ドゥルーズは「農耕民族的在り方から遊牧民族的 在り方へ」という方向性を指し示しましたが、実際には「専制国家は遊牧民族 の『家畜管理システム』から生まれた」ことは「世界帝国の建設者は遊牧民族 系がほとんどである」という歴史(古代の商人は「海の遊牧民」だったと見做 せます)を見れば明らかであり、キリスト教もまた本来遊牧系宗教なのですか ら、「ポストモダン」はまったく逆に「農耕民族的在り方」の理論化において 展開されるべきです(特に、稲作地帯的思考から−−日本の「ムラ文化」は、 東南アジアのそれとほとんど同じであり、「絶対権力の否定」「相互扶助」を 本質としています。「ムラ文化の否定的側面」をヨーロッパ的知が強調して止 まないからこそ、そこに「近代の克服」のカギがあることがなおさら確信され るわけです。なお、ドゥルーズの理論自体はむしろそうした「ムラ文化」にこ そより良く適合しているように見えます)。 いきなり超越的脱線をしてしまいました(^^;、感想せねば(^^;。 「サカナ」「亀」、河童の皿は太陽のごとし(^^;。ア「リス」「(因幡の) 白うさぎ」「ムサ」サビ、しかし、「あかね=響子」は、これまで展開されて きた「らんま=響子」仮説群にさらにaltjinという「変数」を投入した 時、「必然的に」生じる「転回」なのです(^^;。つまり、それは「らんま=響 子のより高度な帰結」であって、ゆえに、もしけも先生が「らんま=響子」派 であるなら、私は最強最大の「敵」となるでしょう(^^;(経済的足腰は惰弱極 まりないですが(^^;)。ガリレオ・ガリレイ(フィガロでなくて(^^;)が「そ れでも地球は回るのだ」と言う信念と「俺が響子かつあかねだっ!!」という 信念は同質のものです(^^;(ガリレオのセリフは伝説で、本当は言わなかった そうですが(^^;)。 と言うわけで、少なくとも次シリーズに入るまでは「小夏=altjin」 という観点から読みたいと思います(^^;。 さて、海草・キュウリは基本的に私は苦手です(^^;(最近−−と言ってもこ こ何カ月か前−−気づいたのですが、私は元々若白髪−−これ自体は小学生の 頃から(^^;−−なのですが、最近になって右側がちょうどGS美神のシロのよ うに−−と言うより、萩尾望都先生の「一角獣」のそれがずれたと言う感じが ぴったりな−−房的に白い部分ができたことに気づきました(^^;。うちの兄弟 はみな若白髪で、一番上の兄が特に悩んでいて、よくゴマやらワカメやらを食 べていたことを思い出したのです(^^))。後、タマネギとネギも苦手で、特に タマネギのために、「食べれる食品」が限定されてしまっています(^^;。そう そう、基本的に「海のもの」はすべて(原形に近いほど)苦手です(^^;(けも 先生がそこまで知ってるはずはないでしょうけど(^^;。と言うわけでシンクロ ニシティ的一致の方でしょう、これらわ(^^))。 「海亀の涙」、「渚登場編」での「大ウニの涙」が思い出されます(^^)。ア ンコウはそう言えば最近「ごっつう英漢字」でDTがさばいていました。口か ら内臓がデロデロと出て、胃袋を裂くとオサカナが丸ごと出てきて、ハマちゃ んが愕然としていました(^^)。この右京は「ビーナスの生誕」のそれにも見え なくはないでしょうか(^^)、p.150の2コマ目は着ぐるみのごとしですけ ど(^^;。 「秘密の巻物」、プレスされた右京&あかね(つまり、あかねも晴れて人質 入りと言うことでしょうか(^^;)、そして今や話題集中「小夏の胸」の3点が 次号テイクアウトと言うことですね(^^)。 S的対応でめぞんを解析すると、今年始めに私が怒ってしまったことが、い わゆる「金沢道行」の契機となる「響子の涙」に相当するらしいことがわかり ました(^^;(注:複数のエピソードが同時の出来事を多面的に描いていると読 めるので、これは「朱美と響子との対決」とも重なっています)。口座が風呂 であり、同時に2次にわたるベッドインでもあり、さらに同時に惣一郎(の1 つの派生)でもあるらしいことが読めます(^^;。あと、中国史の唐>五代十国 時代>宋>モンゴル帝国という流れまでもがS的対応を見せていることに気づ きました(^^;。唐は仏教・道教時代で、五代十国は、10が響子の数ですから めぞん一刻それ自体、それが統合されて宋となると、新儒教すなわち朱子学が 台頭し、モンゴルの世界帝国へと至る流れです(^^;。このうち、「仏教・道教 >総合的儒教へ」という流れは、altjinが対応として入らないと意味が 見えなくなります(^^;(唐は「もろこし」とも読みますが、これは「諸星」あ たるに対応しちゃったりします(^^;)。「泣いたりしません、怒るけど」とい う響子のセリフから、「響子にとって泣くことは最強に怒ること」という「キ ーフレーズ」が得られ(確かに私は幼い頃はそうでした(^^;、まあ、子供はた いていそうだとも思われますが(^^;)、そこから得られる読みです(^^;。 altjin