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#2563/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 97/ 2/14 0:13 (119) 犬夜叉>半妖 Samwyn ★内容 今回のパートは、冒頭の血吹き肉焼けるヴァイオレンス、中間のアダージョ そしてラストの尋常ならざるぶっとびな神秘性と、「マンガ」として非常に見 事だと感じました(^^)、そして全体を貫く「勁力」のしなやかな力強さは、手 塚作品以来久しぶりに目にするものです(^^)(「音楽性」でしょうか(^^)、手 塚先生もミュージカルが好きで作品中によく描いていましたし(^^))。 さて、それらはまあ他の人の感想に譲り、やはりとゆーか何とゆーかいつも どーりに(^^;S的な方向で検討したいと思います(^^;。 新たな敵殺生丸は、その登場に呼応するように犬夜叉にも「従者」が現れた 点で、結羅同様、と言うかより意識的に「犬夜叉の別の形」だと言えるでしょ う(^^;。額の三日月はアシジンを思わせますが、これはたぶん「せらむん」へ 係り、ようするに「武将たちの祝宴への乱入=Samwynのせらむんラスト 批判」に何となく呼応しています(^^;。頬の文様は、「Samwynの頬のそ れ」だと言えるでしょう(^^;。 ところで、例の「442Hz」、「獅子の2」すなわち「アスカ」であるこ とに気づきました(^^;。「000」は「全エヴァを操れるレイ」のことで、余 分な「444の4」は「トウジ」、そうして「4(1)42」の「(1)」が 「シンジ」に対応します。この時けも先生は「32・・」で、「3にしてアス カの頭の角」、すなわち「ラムの角を持つあたる」に呼応します(あたるなシ ンジのエヴァはかなりのインパクトがありますね(^^;。サクラなミサトにチェ リーなゲンドウ(いや、コタツネコゲンドウと校長冬月か(^^;。とするとチェ リーはリツコっ(^^;)、温泉マークな加持に竜之介なレイ(3号は弁天だった りする(^^;)と蘭なアスカに面堂なカヲル・・・実際にイメージして見ると妙 にハマるのがまた凄い(^^;。特に対ゼルエル戦のアスカは蘭そのもの(^^;)。 「人頭杖」はモザイク・ラセンの「ライガン王の杖」に呼応し、じじいの方 が「火」であることで、「ルビー>留火」から女の方は「留」だとゆーことに なります(^^;。じじい笑いを考慮すれば「留火>ルカ」とも読めますが、その 当りはまだよくわかりません(^^;。 自転車はよくわかりませんが(^^;、「傷の手当てをするかごめ」は「ナイチ ンゲール」のことで、「結羅の巣>ウラヌス」に至ったことで、「去勢された 状態」すなわち「女になった状態」を意味し、犬夜叉へのまたがりもそれを補 強するものです#^^;(「股刈り」#^^;)。 「人と化け犬との結ばれ」は八犬伝の「伏姫」を思わせますが、しかしラス トの絵は「かぐや姫」をより強く指示します。いずれにしても、「首に対する 怨念」「炎」「去勢的乙女というエロス」、これらの統合とその強い意志によ る制御によって、今回のような「しなやかな力強さ」は現れたのだと言えるで しょう(^^)(「(怨念の)恐ろしさを秘めた幻想」の「美しさ」は、明治以来 の日本文芸史上稀に見る「収穫」かも知れません(^^)。しかも、けも先生の絵 は「過去憧憬的リフレイン」ではなく、「独創性」において雨月物語等の絵的 イメージ(これらの話は、実はそのほとんどが中国の伝奇物の翻訳か、よくて 焼き直しに過ぎません(^^;。それらに比べると、今回のラストの絵は竹取の昔 にまで根を下ろしつつ「日本本来の幻想性」を見事に体現していると言えるで しょうか(^^)。あるいは、単にその手の香港映画に由来しているだけかも知れ ませんが(^^;(Samwynはそれらを見たことがないので、そうなのかはよ くわかりません(^^;))を凌駕してすらいるように感じられます(^^))。 さて、Samwynはヤマトとさらばヤマトとを合わせ考えるうちに、「オ ナニーとしての戦争」という概念に到達しました(^^;(「ヤマト」はおそらく は松本零士先生の世界観もあって、敵は一見ナチスを装いつつ、「日本的武士 道」に「是」を置き、ゆえに「敵は実は自分自身」という、今から見ると実は グレートな観点に到達していました(^^)。一方の「さらば」は、「白色彗星」 が「白=正義」から「正義の帝国アメリカ」に係り、西崎プロデューサーの世 界観であろうと思われますが、典型的な「オナニーとしての戦争」を体現して います(^^;。ガミラスと「双子」つまり「分離不可能なもの」として示された 「日本的母性」イスカンダルは、ここでは「孤独な祈り女」へと神秘化・抽象 化され、「その裏はガミラスである」という深い提示はきれいさっぱり忘れ去 られ、「理想化」されてしまっています(^^;)。 もっとも、歴史分析の道具としては、「マツリとしての戦争」と言った方が 扱いやすいでしょう(^^)。この言い方なら、明治維新も、受験戦争も、さらに は阪神大震災も、すべて「マツリ」(として日本人に理解されたの)であった と言ってしまえます。戦時中の厳格な倫理性は、「神の前のマツリ」であるが ために「身を清めなければならない」という「国民の暗黙の合意」から理解で きます、また「受験生の苦悩」もやはり、おそらくは同じ意味で人々に受け止 められているのではないでしょうか(^^;(社会へ出るための「禊」と言うこと ですが、それだけにとどまらず、「マツリ」の重要な機能、「神前勝負で豊作 を祈願する」意味合いがかなり強くあるように見えます。つまり、「日本の栄 えある未来への祈願を込めて」が、これら国家的「マツリ」の本質だと言える でしょう)。 ここで重要なことは、「挙国一致体制とはお祭り実行委員会である」と言う ことです(^^;。つまり、戦後もこれが残ったと言うことは、「日本人は戦後の 平和を『新たなマツリ』として受け止めた」と言うことです。それは「鎮魂の マツリ」であり、「アメリカとの経済勝負=神前相撲」であったのです。 「マツリ」はまた「非日常」です。「永遠の夏休み」「(BDの)文化祭」 はそこを語っています。ところで、「悲劇」は「あまりにも長い間お祭りをし 過ぎて、気がついたら『帰るべき村』がなくなってしまっていた」ところにあ ります。基本的に、「ええじゃないか」からごく最近の「バブル」まで、ずっ と「お祭りし通し」であったのだと言えます(^^;。言い換えれば、「『新しい システム』を我に与えよという民衆の熱狂」は「バブルに至るまでもなお解決 されず」に残り、そして今もなお課題として残されているのです(^^;。 それまで、「政治を司るような貴族」というものは、「それ相応の努力をし て」あるいは「特別な生まれにより」その地位にあったのであり、これはこれ で1つの「安定相」でした。しかし、バブルによって「運さえ良ければ自分も そんな地位に成り上がれる」という幻想が生じ、現在の諸混乱はここに主因を 持っています。すなわち、江戸以来の「士農工商」が今ようやくにまったくに 崩壊したのです。 田中角栄はまだ「特別」でした。しかし彼の「力」はあまりに強大であり、 そしてそれは「ポスト士農工商」の「秩序形成手法」はそれだと言うことを国 会内外に知らしめたのです。 「金」を「土地」に置き換えれば、彼の取った手法は「武家社会」のそれで あり、すなわち「資金を約束する代わりに忠誠を誓いあう」「恩賞政治」に他 なりません。つまり、「ポスト士農工商」は「プレ士農工商」であると言うこ とです、要するに「江戸以前」へと「システム形成論」は巻き戻ってしまった というわけです(^^;。 バブル崩壊は「鎌倉幕府としての自民党」を崩壊させ、「後醍醐天皇的細川 政権」を経て再び「室町幕府な自民党」へと戻ったところであり(「改革派= 南朝」、ここに「官直人=楠木氏」という面白い対応が現れています(^^;)、 かくしてその先に見えるのは「地方分権」です(「応仁の乱」はおそらくは国 会における経団連と関西部派との争闘、すなわち「アメリカか中国か」で、た ぶん同時期に首都移転か関東大地震が生じるのでしょーか(^^;。いずれにして も、この争闘で中央官僚は崩壊し、一端地方分権でスリム化されつつ、もっと も効率の良いシステムが「日本連合代表」の地位を得ることになるのであろう と思われます(^^;)。なお、「アメリカ=イスラム」に置けば、現在の「中国 ・インド・アメリカの台頭」は明白に「中世的世界構造への『落ち着き』」だ と言えるでしょう(^^)(よーするに、「ヨーロッパの覇権」が「モンゴル帝国 の覇権」のような「例外的事象」だったとゆーことです)。日本を始めとする ASEANはこれら3国の「中間点」に在るわけですが、飛行機や船舶の発達 で「貿易中継点」の旨味はもうあまりないでしょう(^^;。いかにして国を立て るか、難しいところです(^^;。 Samwyn