SIG るーみっくわーるど SIG るーみっくわーるど」は、漫画家 高橋留美子先生(るーみっくわーるど)の作品が好きな仲間が集まっているグループです。 るーみっく好きなメンバー間コミュニケーションのためのチャットや掲示板の提供、るーみっく系イラスト・小説・リンク集の公開などを行っています。 オフ会も不定期に開催されています。1992年6月にPC-VAN上で誕生した歴史あるグループです。
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投稿日時:1994/ 1/ 8 12:59 投稿者ID:MBH38915
#1297/3141 るーみっく☆わーるど
★タイトル (MBH38915)  94/ 1/ 8  12:59  (188)
BD大会>はじめまして           紺野 晃弘
★内容

 はじめまして。「お知らせ」を読んで「ビューティフル・ドリーマー」についての
大会が催されていると知り、はじめておじゃましている紺野というものです。

 はじめて「ビューティフル・ドリーマー」を見終えたとき、両方の掌にびっしりと
汗をかいていたことを覚えています。当時中学生だった僕にとってそれはとても衝撃
的な作品であり、それ以後、現在も押井監督の作品を観続けているという僕の方向生
を示したのではないかと思っています。記念碑的な作品ですから、現在もLDで時々
観ています。

 自己紹介はこれくらいにしておきます。僕の独断と偏見で見どころを挙げさせてい
ただきます。


僕の見どころその1 戦車

 押井作品に必ず登場するのが戦車です。「ビューティフル・ドリーマー」でも旧西
ドイツ軍の主力戦車である「レオパルド」がでてきます。電撃で破壊されたり、プー
ルに沈められたり、温泉マークには邪魔もの扱いされたりさんざんなキャラクターと
なってますが、可能な限り緻密に描かれているだけあってかっこいいですね。本来の
使用目的である武力行使には使われていないところがいいです。いっぺんでいいから
あれで道路を耕しながら走ってみたいと思っています。


僕の見どころその2 食事のシーンと長台詞

 押井作品の特徴として、ものをがつがつと食べるシーンと、NGがでたらとても声
優さんがたいへんだろうと思われる長い台詞があります。「ビューティフル・ドリー
マー」では、食事のシーンはあたるの家での会食(ほとんど格闘に近い)、お好み焼
屋「じぱんぐ」、牛丼屋「はらたま」があります。育ちざかりの高校生ですので、実
に生き生きと食べています。観ていて笑えると共に、気持ちがいいですね。長い台詞
は校長先生、温泉マーク、夢邪鬼、メガネがしゃべっています。なんでここまで意味
のある部分と意味のない部分をおりまぜながら長い台詞が考えつくもんだなぁと感心
するくらいです。でもここに押井作品が緻密な計算によって構成されている部分と監
督や脚本家、等のスタッフの思いつきによって構成されている部分があり、その思い
つきの部分があることすら計算上のことであるという演出が表れていると思います。


僕の見どころその3 アクション

 押井作品のもうひとつの特徴として卓越した映像感覚によるアクションシーンがあ
ります。「ビューティフル・ドリーマー」では随所にアクションシーンがあります。
オープニングのジェットスキー、サクラのバイクシーン、友引町脱出をはかる面堂と
しのぶが乗る車のヘッドライトに照される路地、そして、夜の校内探索。このシーン
は2次元空間であるセルの上に3次元空間を投影する際の手法を逆手に取った、視点
は変わるわ、座標軸は変わるわ、重力加速度は変わるわ、重力ベクトルの方向が変わ
るわもうなんでもありです。あわせ鏡による疑似無限空間もいいですね。まだまだあ
ります。ハリアーの離陸、旋回、友引高校跡地の池へのダイビング、バクの飛行、あ
たるの落下。これらのアクションシーンでは完全に実写、特撮を越えていると思いま
す。アニメーションだからこそできるわざですね。アクションシーンはロボットアニ
メで鍛えられた日本のお家芸です。僕なんかはディズニーのアニメは人やものの動き
が妙にぐにゃぐにゃしていてなじめませんね。
 アクションシーンとはいえませんが、「引けー、引けー、力の限り引けー、根性見
せてみろー」の荷物を引き上げているシーン、サクラと温泉マークが名曲喫茶で語る
シーンのぐるぐる回るパンをするカメラ。これらも、さすが、といえるでしょう。
 モブシーンでスタッフの顔が見られるのも楽しいですが。


僕の見どころその4 どこから「夢」に入っていたのか

 以前僕の仲間内で結構話題になったテーマがこれです。戦闘空母の様な雰囲気さえ
漂わせる最初の夜の友引高校のシーン、チンドン屋を目撃した後の朝の友引高校のシー
ン、作品自体が「夢」の途中から始まっていた、もともと「夢」を見ていなかった、
等々様々な意見が出ました。どれも肯定する材料と否定する材料が共にあって結論に
はいたらなかったのですが。
 何かのインタビューで押井監督が、「運動会や遠足等の何か楽しいことは、それが
始まっている状態よりも、始まる以前の状態が一番楽しい」「その楽しい感覚だけが
永遠に続いているのではないかと思われるような幻覚」のような意味のことをいって
いたような気がします。僕自身高校の文化祭の準備をしている最中に、文化祭の前日
だけを演じている自分、しのびこんだ学校の無限に続くのではないかと思われた長い
廊下、闇の中で振り返った校舎が3階建てなはずが4階建てに見えた幻覚を感じ、背
筋がゾクゾクとなるような興奮を覚えました。
 「うる星やつら」自体が「夢」であったような気もします。実際テレビシリーズで
218話続いたのは異例ですし、このまま何年でも続いていくのではないかというよ
うな錯覚までありました。テレビシリーズ終了後もビデオシリーズが続いたり、映画
をつくったりと、まぁ、よくあれだけ続いた(続いている)ものだと思います。これ
もまた、最終回というもののひとつまえを永遠に繰り返しているのではないか、と思
うのです。そして、「ビューティフル・ドリーマー」自体が最終回のひとつまえでも
あったと思います。押井監督が「ビューティフル・ドリーマー」、テレビシリーズ
127話(確か)を最後に「うる星やつら」を降りた(降ろされた)わけですから、
終わりを予感しながらその直前を繰り返してきた監督自身が最初に手掛けたときから
「夢」に入っていたのかもしれません。


僕の見どころその5 だれが「夢」を見ていたのか

 それなら作品の中で夢を見ていたのはラムであると言っているではないか、と思わ
れるでしょう。僕はそれを疑ってみるとまた別の見方ができるのではないかと思いま
す。もともと「うる星やつら」自体が「夢」のような話だったわけですから、その中
のあるキャラクターの夢の中の話である、といわれても果たしてそれで説得力がある
のか、ということです。
 そして、最後の「夢」からさめるトリガーを引くのはほかならぬあたるです。自分
の「夢」からさめるのに他人がトリガーを引けるのであろうか。ラムはわざとあたる
にトリガーを引かせたのか。いつのまにか「夢」を見ていたのはラムからあたるに変
わっていたともとれるあたるが目覚めるシーン。
 「ビューティフル・ドリーマー」のなかでは、キャラクターは誰も「夢」を見てい
なかった。では、誰が見ていたのか。それはほかでもない「ビューティフル・ドリー
マー」を観ている我々、観客ではないかと思うのです。当時ガキだった自分は作品の
中に自分を投影して同じ感覚を体験しているような錯覚がありましたが、現在になっ
てみれば「夢」を観ていたのは他でもない、自分自身だったと感じているのです。当
時はできなかったもうひとつの見方ですね。昔観たなぁ、という懐かしさとは違った
別の懐かしさがあるのではないでしょうか。


僕の見どころその6 「客観」的概念の排除

 夢邪鬼もいっているように「世界中に人間が一人もおらなんだら時計やカレンダー
になんの意味があるちゅうねん・・・・」というのは真実だと思います。テーブルの
上に林檎があるとき、そこに林檎があるというのを認識しているのは自分自身であり、
自分が認識していなければそこに林檎は存在しているなんてことはわかりようもない。
つまり、認識者が認識したときにだけ林檎は存在する。空間や時間概念、はたまた
「客観」のよりどころである「単位」まで実は認識者が認識したときにしか意味をな
さない主観の産物でしかないことに気が付くはずです。物事は全て相対的にできてい
る。その相対性を知覚できるのは主観のみである、そう思います。
 その主観の具現化したものが「夢」であるといえます。それゆえに残虐性も露呈し
てしまっているのが、夢邪鬼がいう「悪夢」や、ラムの意、夢邪鬼の意に反するとし
て「夢」から消滅させられたキャラクターたちではないかと思うのです。ま、消滅さ
せられたキャラクターたちには別の「夢」が用意されていますが。でもそれによって
本来の「夢」を支える形になるのは主人公ではないという悲しさではないでしょうか。
 あくまでも「客観」にすがる面堂はこっけいさを通り越してかわいそうになります。
レオパルドの主砲の到達距離をもと測量した、亀の上に存在する世界の直径を計測す
ることになんの意味があるのか。誰の目からも明らかな真実とななにか。それにして
はあまりにも単純すぎる結論とのギャップ。それに対比するあまりにも脳天気なメガ
ネたちの行動。多分彼等が自分のおかれた立場をいちばん良く理解していたのではな
いかと思います。そして前向きでもあった。ま、衣食住が保証された中でサバイバル
といえるのか、永遠のシャングリラなんて実現するのが前向きなのかははなはだ疑問
ではありますが。
 この「客観」的概念の排除は後の押井監督の作品にも引きずられています。


僕の見どころその7 夢邪鬼とラムは出会っていたのか

 本当に水族館でふたりは出会っていたのでしょうか。「ホンマのことでっせ」と言っ
てはいますが、彼にとってはそんなことどうでもいいはずなのに、と思うのです。実
際に出会っていたのではなくて、それこそが彼の「夢」のではなかったのか。「夢」
ならそれは「本当」であり、現実以外のなにものでもないはずです。それを示すため
に「ホンマのことでっせ」とわざわざ言ったのだろうか。「本当」であることにはほ
とんど意味がなく、「夢」か「現実」か、などということもなにも意味がないことは
監督自身が否定しているにもかかわらず、「ホンマ」とはなんだろうか。
 会話等をするとき、なかなか信じてもらえないときに「本当だ」という言葉を連呼
するような言動を、一歩離れた視点から冷めた目で見てみるとこっけいに見えると言
うことを監督自らが行ったのではないかと思います。
 やはり、これは疑ってかかった方がまた別な見方ができると思います。


僕の見どころその8 「責任取ってね」

 誰が、どう責任取るのか。そもそも責任とはなんぞや。多分永遠の疑問ではないか
と思うのです。監督自身も明確には答えていなかったと記憶していますから、実は監
督自身にも良くわからないのではないかと思います。一番最初に観たときには誰もが
「?」と思ってしまい、二度目以降になにかしらの解釈を与えようとして観直すとき
には「責任取ってね」という台詞が記憶の中に入り込みすぎていて純粋な状態では観
ることができないのではないかと思うのです。
 DNAの2重螺旋を思わせるような描写をバックに、淡々とあたるに語る夢邪鬼。
工場の音、心臓の鼓動を思わせるようなS.E.。
 僕は思うのです。責任取るのは我々観客ではないかと。ほとんど作品が作者、監督
の手を離れ、一人歩きしてしまっていたあの頃、そして現在。それゆえ、あのデカ帽
子の女の娘は押井監督ではなかったのか、そう思えてならないのです。押井監督らし
い小細工がほとんどないあのシーンだからこそ、強く思います。作品自体を一人歩き
させてしまった一人として、反省すること、責任を取りきれてないこと、そんなこと
を感じます。


 「ビューティフル・ドリーマー」は押井監督が「うる星やつら」のキャラクターを
借りて監督の世界を構築しようとした実験作であるともいえますが、残念なことか、
それでよかったのか、完全には押井監督の世界が構築できなかった(制作者サイドの
意向もあったらしい)こと、「夢」からさめる際に最後にあたるがラムの名前を口に
したことが心残りです。でも、さいごにあたるが名前を口にしなかったらまだ「夢」
は続いていたわけで、ふりだしに逆戻り、ということになります。物語りとして、そ
んなことしたらちょいと反感食らうかもしれません。「夢」からさめてほしくなかっ
た。それが僕の素直な感想ですね。あたるの「キッチリホレとる」という台詞は僕個
人としてはそれまでずっと言ってほしかった台詞ですね。じゃないとあたるじゃない
ですよ。やっぱり。そして、コールドスリープの事故で(多分)死んでしまったラム
の顔を見せなかったのは当然とはいえ、評価したいと思います。「もしかしたら
(我々に)見せるのではないか、見たくない、見せないでくれ」と心の中ではじめて
観たときは思いましたから。


 だいぶ長くなりましたが、このへんで終わりにします。また「ビューティフル・ド
リーマー」が観たくなりました。

 それでは、また。

                     ID:MBH38915 紺野 晃弘

P.S.Star’s Rondoは僕も好きな曲です。でも、チンドン屋のテーマ
    をサウンドトラックに入れて発売してほしかったです。

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