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#1370/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (MBH38915) 94/ 1/23 9:21 ( 55) BD大会>「ほんまのことでっせ」 紺野 晃弘 ★内容 RESが遅れて申し訳ありません。アクセスの頻度が低いもので。 Niftyとの相互書き込みもあり、盛り上がっているようですが、また少しだけ 書かせて下さい。 物事に対しての意味や解釈というものは十人十色でなければならない。と、思うの です。また、それを表現する言語自体も十人十色なはず。たとえ、それが「共通な」 日本語という枠に囲まれていたとしても、微妙な意味、ニュアンスというものは一人 一人の経験、印象の深さ、思い入れ等によって全て違ったものになっているはずです。 映画、文学作品、絵画、音楽等は、作者がどう考えたか、何を言いたかったのかは確 かに重要ですが、それが全てではない、と思います。作者の言動をシミュレートする ことよりも、受け手がどう考えたのか、どう受け取ったのか、の方が重要だと思いま す。十人いれば十人解釈が違って当然。受け取る意味も違って当然。 また、作者はそういった作品をつくらなければならないと思います。たったひとつ の解釈、イデオロギーしか感じ取れないものは非常に危険です。そして、作者自身は 受け手に向かって解説をしてはいけない。一つ一つの解釈は完全ではありませんから、 いろいろな側に立ってあれこれと考えているのが楽しいのです。これが僕のスタンス です。 このスタンスに立つきっかけが「ビューティフル・ドリーマー」でした。優れた エンターティメント作品であり、思想的にも優れたものであった、この映画を私たち は共有することができた、僕はこの作品に対して非常に大きな喜びを感じずにはいら れません。10年もたってこんなに熱心に語り合えるのですから。 僕は踏み絵に対して全然違和感を感じなかった一人でした。だから「真のうる星 ファン」でなかったのでしょう。いくら同じ時間が、学園祭の一日前が繰り返されて いる錯覚を持っていたにしても、いつかは覚めてしまう、気が付いたら学園祭の次の 日だった、始まりがある物語りは必ずどんな形でさえ終わりがある。そういうさめた 一面も持っていましたから。別な言い方をすれば、終わりがあるのだからこそ面白い のではないか。TVシリーズもあんな形ではなく、もっと華々しく終わってほしかっ たと僕はいまだに思っています。 と、言いつつ、まだ卒業していない、責任も取りきっていない、モラトリアムな僕 は「ほんまのことでっせ」と言いながら30%の真実と70%の嘘を織り混ぜる説得 力を武器に突っ走っている監督を見ながら「犬」になるのでした。 なんとか原作に沿ったものを作らせたいプロデューサー側と戦いながら、「俺はこ れがやりたいんだぁ」と突っ走った監督。それを知ってか知らずか手に汗握りむさぼ るように見ていた私たち。そのうち自分たちの都合しか押しつけなくなった私たち。 だからこそ「ほんまのことでっせ」が必要だったのではないか、とも思います。逃げ とも攻めとも受け取れる「ほんまのことでっせ」は、やっぱり「ほんまのことでっせ」 だったのでしょうか。・・・ということで僕の答えになっているかどうか心配ですが、 答えになっているでしょうか?>飛鳥さん。 僕は「貴方の一番好きな、すばらしいと思った映画はなんですか」との問いには必 ず「ビユーティフル・ドリーマー」です。と、答えています。ま、その答えを聞いた 人は、「このおたく野郎が」というような反応をしますが、それもその人なりの解釈、 と受け止めております。実際、いろいろと「おたく」ですから。 僕はどうこう言える立場ではありませんが、期間を延長するなら1回限りにして下 さい。区切りはきちんとつけたいと思います。 タルコフスキーまで出てきて感動した 紺野 でしたぁ。 P.S.なぜだーっ!なぜなんだーっ!なぜ僕のCD(H30K-20024)にはチンドン屋の テーマが入っていないんだーっ!