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#1371/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 94/ 1/23 10:55 ( 51) BD大会>解釈の許容範囲 SAMWYN ★内容 ちょっとBD大会から脱線してしまうことをお許し下さい(^^;。ただ、私の 「作品解釈」に対する立場をはっきりさせておいた方が後々のためにも良かろ う、また、Nifの方々にも読んでもらえた方が良いだろう、と言うことで、 私の立場を書いておきます(^^)。あ、なお、別に紺野 晃弘さんへの反論と言 うわけではありません(^^;(世界観の十人十色はそれこそその人の自由ですか ら(^^)。ただ、私のそれが根本的に「ズレて」いるので、それを明らかにして おいた方が良いと思った次第です(^^;)。 ある作品に対する解釈が人それぞれであることは私ももちろんそうだと思い ます。しかし、それは作品の「表現されたところの」意味が「空」であるから だ、とは私は考えません。 「表現」は「意志と欲求」によってなされるものであり、必ずその背後には 作者の(その時点での)世界観が存在しています。すなわち、すべての作品は 意味においては有限です。従って、「解釈は自由」と言えども、「意味のある 解釈」にはおのずと許容範囲が生じます。 例えば、BDを「チンドン屋応援映画」と解釈することも「夢邪鬼とあたる が愛し合う映画」と解釈することも、「解釈すること」自体はそれこそその人 の自由です。しかし、それは、そう解釈されることを押井監督は望まれたので しょうか? 人が「表現」するのは、「何か」を伝えたいからです。これは、「不条理」 を表現手段とする作品においてすらそうです。なぜなら、彼は不条理という手 段を「選ぶ」ことで、自身の意志を発現しているからです。 一般に、意志の発現は、人に特定の世界観があり、現実世界がそれとズレて いる時に「現実を自身の世界観が良しとする方向」へ向けて動かすために行な われます。「表現」はそのもっとも高度な形態であり、それだけにきわめて強 固な世界観がその人をして「表現」せしめたのだ、と考えるのが妥当かと思わ れます。 だから、「彼が何を伝えようとしているのか、何を伝えたかったのか」を無 視する解釈はコミュニケーションを最初から否定するものであり、詰まるとこ ろはその人を1人の人として扱わず、物として扱うのに等しい、「侮辱する」 解釈でもあります。しかし、それはあくまで「解釈」とした場合で、実際には そうした解釈はすでに解釈ではなく、「その作品を材料に自分の世界観を語る こと」、すなわち「表現」に他ならないのです。 「解釈」と「表現」との混合、これが今一般的に広まっていますが、私が思 う限りでは、「十人十色」なのは「表現」であって、「解釈」は必ず正解が1 つあり(=作者の表現したかったことです)、すべての解釈者はよりそれに近 づけるように努力すべきである、また、よりそれに近い解釈の方が価値が高く なる、そうあるべきだと考えています。 ただ、このBD大会では「表現」としての「解釈」メインであることが最初 の規定で宣言されていますネ(^^)。従って、私がしたことは「BDは意味不明 な部分が多い」というMSGが多かったので、「表現」の足場となるべき私な りの「解釈」例を示しただけであり、あくまで他の方々のご参考になれば、と 思うだけで、他の方々の「表現」を束縛する意図はほとんど(さすがに、「表 現」と「解釈」を完全に混同しているのは私のそれとぶつかってしまうでしょ うが(^^;)ないつもりです(^^)。 SAMWYN