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#1433/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (CHM88424) 94/ 2/10 10:32 (106) BD大会>僕にとってのBD(長文) NIFTYより ★内容 【NIFTY-Serveより転載43】 >- FANPLN MES( 4):るーみっくわーるど(8)高橋留美子の部屋 - >00296/00296 PXH01472 にゃにゃ丸 BD大会>僕にとってのBD(長文) >( 4) 94/02/09 20:10 BD大会もあとわずか...という訳で、『僕にとってのBD』というタイトルで 感想文などをアップします。(本来、こ〜ゆ〜、素直なものを最初にアップするも のなのでしょうが、まあ、そこらへんは行きがかり上、というわけでして(^^;) (←何がじゃ?)。) 僕にとってBDという映画は、一番回数をこなしている映画である、という意味 でかけがえの無いものになっています。一体、何度見たことでしょうか?おそら く、LDだけでも、50回は下らないのではないかと思います。それだけ見ると、さ すがにあらゆるシーンが頭に刻み込まれてしまいまして、大体のセリフについて は、そらんじられるぐらいになってしまっています。 これほどまでに見ると、普通の映画なら飽きてしまうところなんですが、BDと いう映画については、それがあてはまりません。毎回、見る度に新しい発見がある のです。これは実に不思議なことだと思います。 なんでBDという作品は、見る度に新しい発見があるのでしょうか?それはおそ らく、BDの作品としての構成自体に、その理由の一端があるのではないかと思っ ています。 BDという作品は、押井作品とるーみっくわーるどが高度にカップリングされた 結果として出来上がったものです。ある意味では、“闇ナベ”に近いところがある のですが、BDの場合は、それが良い結果へと転がったようです。 ハードSFといっても良い題材を脚本として持っているにも関わらず、登場人物 達は実に生き生きとしている。つまり、脚本が要求する極めて閉息的な世界・空間 (押井ワールド)で、実にしぶとく“日常生活をする”キャラクター達(るーみっ くわーるど)、この一見、アンビバレントな両者が、何の矛盾もなく共存してしま う...、これはすごいことです。 実際、BDぐらいの筋書きでしたら、P.K.ディック等のSFを読めば、いく らでも出てきます。しかし、それらのサイバーパンクSFとBDとの圧倒的な違い は、キャラクターにあります。 例えば、ディックワールドの場合、登場するキャラクター達は、ある意味で我々 に近いものがあります。彼らは、ディックが設けた異常なシチュエーションに対し て、何とか対処をしようとはしますが、その根底においては諦観に近い感情を持っ ています。つまり、たとえ異常な現実であっても、それを“現実”として受け入れ ざるを得ないという意識を持っているのです。つまり、彼らにとって現実の肯定 は、ネガティブな意味でなされるのです。 それに対して、ラムやあたる達はどうでしょうか?彼らは、確かに、今自分たち が“異常な”シチュエーションに置かれていることは知っている。でも逆に、その シチュエーションを利用して楽しんでいる。つまり、彼らは、その異常なシチュエ ーションにさえも、喜びを見いだしてしまう。彼らにとって現実は、常にポジティ ブな意識を持って受けとめられるのです。 このようなキャラクター達の精神状態の違いは、当然、作品のトーンに影響を与 えます。ディックワールドは所詮、我々が現実に生きているこの世界(日常生活を “ハレ”と“ケ”に分割すれば、“ケ”にあたる世界)の鏡像にすぎない。それに 対して、BDの世界は、あきらかに“ハレ”の世界である。いわば、BDという作 品は90分間の間に、“祭り”的空間を演出しているのでしょう。(考えたら、BD の世界では、永遠に文化祭前日という祭り的時間が継続しているのですしね。) BDという作品が90分間の間に“祭り”的空間を演出しているならば、その“祭 り”において“ラム”は一体、どのような役割を占めているのでしょうか?BDに おけるラムの役割を考える前に、“祭り”という“ハレ”の時間が人間社会で占め る意味というものを考えて見ることにしましょう。 古代において、“祭り”は“生活の節目”を意味するものでした。例えば、農村 において生活の大きな節目となりうる出来事に“収穫”があります。収穫とは、農 村社会においては、1年間の厳しい労働が一段落した事を意味すると同時に、また 次の収穫までの生活を保証するものでありました。農村においては、普通“収穫” の時期に“祭り”が催されました。その“祭り”において、人々は肉体を厳しい労 働から解放すると同時に、精神を解放することも要求しました。“祭り”の場と は、厳粛な神への感謝を示す“儀式”の場であると同時に、人々が日常、束縛され ている様々な“秩序”から自らを解放する場でもあったのです。“祭り”の場にお ける様々な催し物は、人々の日常(“ケ”)空間に“非日常(ハレ)”の時間を侵 入させるために不可欠な“馬鹿騒ぎ(儀式)”なのです。 さて、BDにおけるラムの役割は、“グレート・マザー(太母)”でしょう。つ まり、BDにおいてラムは、あらゆる現象を生み出す“地母神”としての役割を振 られているのです。“祭り”の時間において、感謝を捧げられる“女神”としての 役割です。 ところで、ユング心理学によれば、“グレート・マザー”のイメージは、あらゆ るものを育てる母なるものの元型であると同時に、すべてを自らの内に呑み込もう とする恐ろしい性格を合わせ持つものです。BDにおいて、ラムの願望というもの に、ある意味で矛盾がみられる(例えば、永遠に“今”が続くことを期待しなが ら、あたるに自らの夢を破ることを許可するような点)のは、もしかしたら、この “グレート・マザー”がもつ“養うもの”としての性格と“呑み込むもの”として の性格、つまり、母性本能の二面性から発しているのかもしれません。 僕は、数ある『うる星』映画の中で、最もラムが“美しく”描かれているのは、 このBDをおいて他にはないと思っています。それは、今まで述べたような理由か らです。 そして、何故、僕は何度となくBDを見、そしてその度ごとに新しい発見をする のか? それは、おそらくBDを通して、僕が自分自身の精神の中に潜む様々な元型と会 話をしているためではないかと思います。僕にとってBDという映画は、まさに “Soul-searching”をするための手段のひとつなのです。 あ、やっぱり最後には、素直な感想文じゃなくなっているなぁ。おまけに尻切れ とんぼ(^_^;)。最後の最後まで、BD作品論もどきばっかりUPして、スミマセン でした。BD大会、大変、楽しゅうございました。 最後に、謝辞などを... いままで、僕の駄文を読んでくださったすべての方々に感謝いたします。>ALL PC−VAN側との転載をして下さった方々に感謝いたします。>転載スタッフ そして、これからもよろしくお願いします。>ALL ハ ヘ by にゃにゃ丸(PXH01472) ミ^_^ミ