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投稿日時:1994/ 6/ 5 13: 4 投稿者ID:QKM33822
#1690/3141 るーみっく☆わーるど
★タイトル (QKM33822)  94/ 6/ 5  13: 4  (155)
考察>RE#1688 認識の挑なんちって(^^; altjin
★内容
 ども、マッシャ・アッキーニさん(^^)、

>「言語」
 一応どう表現すれば良いのかわからないので「言語」としましたが、言語そ
のもののことではないので念のため(^^;。
 「言語構造」「価値体系構造」、そういう「構造」の方に主点が置かれてい
ます(^^;。

 「認識」の根本は「2つに分けること」だと私は考えています(^^)。例えば
「意識」。私たちはこれを「独立した実体」だと見なしていますが、しかし実
際には「意識」は「何かを意識すればこその意識」であって、本来は対象と不
可分の「活動」ですね(^^)。しかし本来不可分な「意識行為」を、「意識する
もの」と「意識されるもの」の2つに分けることによって、私たちはその各々
があたかも「絶対的自立存在」であるかのように「認識」します。すなわち、
「意識」も「対象」もあくまで「仮定的・概念的存在」であって、「現実的存
在」ではありません。
 この過程では「ラベル化」が重要な働きを担っています。あるいは、次の例
えが分かりやすいかも知れません(^^)。
 あかねちゃんが何やら粘土の塊を作ったとします。乱馬にはそのままではそ
れが何なのか分からない(^^;。そこで、あかねがその一方に「あたま」とラベ
ルを張り、反対側に「しっぽ」とラベルを張れば、その時、その物体は少なく
とも「動物」ではあると乱馬に「認識」されます。ここで「粘土の塊」が「ラ
ベル付け」によって「動物」に「化け」ました。もし反対側にも「しっぽ」で
はなく「あたま」とラベルを張れば、乱馬にはやはりそれは「粘土の塊」とし
てしか「認識」出来ません。なぜなら、「あたまを2つ持つ存在」は普通はな
いからです。であるなら、この時乱馬は、自分の中の「何か」と目前の物体と
を比較することでそれを「認識」しようとしていたことになります。そしてそ
の「何か」は「排他的な」もの、すなわち「動物:A(片方があたま)ならば
B(もう片方はしっぽ)である」「魚:A(片方があたま)ならばB(もう片
方は尾ひれ)である」等の「判定基準」であることが分かります。すなわち、
乱馬は自己内にすでに確立されている「基準体系」との差から「認識」を行お
うとしました。
 であるなら、その「基準体系」こそ「認識の正体」であるはずです。そして
それは、上の例からわかるように「論理的判定基準」です。そして「論理」だ
けではもちろん使えず、「言語的分類」行為によって形成される「オブジェク
ト指向的に体系づけられた諸概念」という心内データベースがあって、初めて
「認識」は可能になります。

 以上は、「非言語的分類」行為は在りうるのか? を考えることでさらに詰
めることが出来ます(^^)。これは割とあっけなく、上から、

1)言語的分類による基準体系は存在する(経験則による定理)
2)非言語的分類による基準体系も存在すると仮定する
3)当然、それは1)に組み込まれ得ない基準体系である
  3’)組み込み可能ならそれもまた1)に属する基準体系になるから
4)3)なら、2つのまったく無関係な基準体系が同時に存在することになる
5)4)ならば、「認識」は不可能になる

という過程で「非言語的基準体系は存在しない」ことを証明出来ます(^^)(最
後のところで「2つの物差し」のケースを考えられるかも知れませんが、その
場合、その2つの物差しは相互間の変換体系があります。だから、それは「言
語的分類による基準体系が2つある」意味にしかなりません(^^))。

 なお、「認識」はされなくても「感覚」は可能です(^^;。ただし、それは基
準体系内の「位置」が未定なので「無意味」になります。抽象画を初めて見る
人の反応がそのことをよく表していますね(^^)。ちなみに、「感動」と「無意
味」は限りなく近いものがあるようです(^^)(ともに「(瞬間的に)空をもた
らすもの」と言えます。ナンセンスなギャグも同様です(^^))。

>「誤読」
 あ、いや、もしかしたら私が「誤読は許さん!」というタイプのように思わ
れているかも知れませんが、そんなことはありません(^^)。少なくとも私自身
の小説の経験で言えば、「書き終わって公表された作品に対しては、作者もま
た1読者である」と強く感じています(^^)。もし私が非難するような「誤読」
があるとすれば、それは「物語を自分の都合の良いようにしか読まない」類の
ものでしょうか(^^;(別に、それも強く非難するわけではないですが(^^;)。
そういう人は、「物語を読んでいるつもりで、実は自分自身を読んでいるに過
ぎない」のだと思います(^^;。だからそれは、もう「誤読」以前の問題だと言
えるかも知れません(^^;(「物語」を何か別の目的のために読まれることは、
非難はしませんが、もったいないことだとは思います(^^;)。まあ、別に読ん
でそれで喜んで頂けるのであれば、どんな風に読まれようと私はそれで満足で
すけどね(^^)。

>私の杞憂
 「そうなるような話を作る」ことこそが創作活動の究極目標と言えるかも知
れませんね(^^;。過去が違う有限な人間が作り過去が違う有限な人間が読むの
ですから、むしろ「誤読」は「あって当たり前」です(^^;。そしてそれだから
こそ、考察・評論・解釈・解読が大きな意味を持つのだと思います(^^)。作者
は完璧ではないし、読者も完璧ではない。そこで作者には作品の分析を通じて
「作者自身が気づかなかったような隠れた意図」を示すことで次作への踏み台
となり、読者には「なぜ共感・感動したのかを明らかにする」ことによってよ
り良い生への踏み台となる、すべからく評論家はそうあるべし、と私は思いま
す(^^)(まあ、別にその人の価値観・世界観からの独断的な評論も、それと読
む人との価値観・世界観とを比べることで様々なことに気づかしめる、という
有意義な効果はあると言えるでしょうね(^^))。

>「読者」をモデルにした部分
 ああ、それだったのですか(^^;。私が言ったのは、「読者の喜ぶなりなんな
りの反応による作者へのフィードバック」の方です(^^;。つまり、どのマンガ
でも作品でも、長期連載ものでは必ずあるフィードバック系のことです(^^;。

 結局、世界そのものが作者にとっては「モデル」ですから、その中に読者が
入っていてもなんらおかしくはないと思います(^^)。問題点はむしろ、「作品
はすべからく読者からも作者からも独立してあるべし」とする「ロマン派的芸
術思想」にこそあるのではないでしょうか(^^;? ちなみに、私が小説「TO
RA」で行ったことは、「SIGの諸活動からインスパイアされたことを私な
りに昇華・統合した」ものであって、「SIGの諸活動を戯画化した」もので
はありません、念のため(^^;。

 しかし、らんま1/2には「読者を何とか説得しようとした」跡が随所に見
られるのは私も確かだと思います(^^;。ただ、それを言うとうる星やつらにも
めぞん一刻にもそんな痕跡があるのですね(^^;(例えば八神にしても、二階堂
クンにしても、どっか戯画的な部分がありませんか(^^;?)。いや、それだけ
でなく、ほとんどすべての作家のすべての作品(マンガ以外のメディアも含み
ます)においてそうした要素が見られると言っても過言ではないとも思えます
(^^;。しかし、それがらんま1/2ではもっとも強く作用しているのも確かで
はあるでしょう(^^;。「これだけは分かってもらわないと、先へ進めない」と
いうような「強い働きかけ」ですね(^^;。つまり、「作品の基本的部分に関る
きわめて大きな誤解が長い間続いていた」可能性があります(^^;。私に言わせ
ればそれこそが「らんまがヒロインとして長い間認められなかった」ことなの
ですが(^^;・・・。

>中央を貫く線
 いや、「時間的前後における中央」すなわち「映画の時間的中間点」のこと
ではなく「空間的推移における中央」すなわち「映画の時間軸に沿った螺旋」
のことです、私が言ったのは(^^;。より具体的に言えば、「あたると白い帽子
の少女」のことです(^^)。

>「引き込む力」と「安心感」
 これを「うまくない」と言ったのは、「おそらく別のベクトルが必要になる
だろう」からです(^^;。つまり、もはや「螺旋」にも「同心円」にも囚われな
い観点がその時には必要になるものと思うのです(「良い作品」にしようと思
うのであれば(^^;)。つまり、作り手がそのような覚悟なしに不用意に用いれ
ば、ダメになってしまう可能性の高い構造だ、と言うことです(^^;。それを覚
悟の上で使うのであれば、そうしたパラレル・ワールド構造は「物語の内部的
フィードバック系を破壊することで、より本源的なフィードバック系−−例え
ば認識過程や、作者もしくは読者自身の価値体系−−をあらわにする」性質を
持っているようなので、特にそうした方向性へは最強のパワーを発揮出来るも
のと思われます(^^)。
 だから、「うまい」「うまくない」は、「作者が楽出来る(その分、別な部
分にエネルギーを注げる)か否か」だけの観点であって、作品の出来不出来を
価値付ける表現ではありません、念のため(^^;。

 「破壊」はおそらく「より高次な創造」のためならば評価されるべきことだ
と思います(^^)。さもなければ、前衛音楽が陥ってしまったように、「拡散」
と「自己満足」へと向かってしまうことになるでしょう(^^;。そしてそれはた
ちどころに「人気の低下」という形で跳ね返って来ます(^^;。理想や理念はど
うあれ、まず何よりも「1人の人を喜ばせるよりも100人の人を喜ばせる」
行為の方が「より良い」行為であると私は思います(^^)(まあ、このへんは個
々人の価値観の問題ですけどネ(^^;)。
 しかし、原作付きアニメではまたことは難しくなりますね(^^;。原作者が望
まない方向へ破壊が行われた場合、以降はアニメと原作とが足を引っ張り合う
事態に陥ります(^^;(アニメの影響力の大きさ故で、同人誌ではよほどのこと
がない限りここまでは至らないでしょう(^^;)。そうなると「基準体系」が2
つ出来てしまったようなもので、それは互いにダメージを与え合う結果にしか
ならないでしょう(^^;。いわば「内乱」ですね(^^;。だから、原作者が受け入
れてくれるほどの、よっぽど優れた方向へ向けて以外の「破壊」は、「戦略的
に自殺行為」で、「大衆に迎合すること=大衆をバカにすること」と同義であ
ると私は思います(^^;。

>理解しようとすること自体が大事
 「言語」という「杖」でまさぐるのではなく、「素っ裸で抱きつくこと」が
大事だと思います、やはり(^^)(いきなりやったら即警察行きですが(^^;)。

altjin
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