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#1694/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 94/ 6/ 6 20:55 (112) 考察>RE#1691 認識の定義が(^^; altjin ★内容 ども、マッシャ・アッキーニさん(^^)、 >「認識の正体」 大事な定義を忘れてました(^^;、私は「認識」を、 「意味を把握する段階」 であるとした上で書いています(^^;。「トータルな認識過程」は、だから次の 諸段階があるもの、としています。 知覚−>[基準体系との照合−>要素の再合成による意味の把握]−>記憶 []内が、私がこれまで書いてきた「認識」のことです(^^;。私の調べた限 りでは、大脳自体がこれを行っています(^^)。つまり、感覚器官を通じて入っ てきた諸情報は、まず幾多の神経分岐点を通過することで、諸要素(色、形、 大脳はこれらをさらに細分化し、例えば線と丸では違う神経回路が機能するそ うです)に1度分解されます。その後、ここからは私の説ですが、再び情報が 統合される際に「基準体系」を逆に遡ることで、概念化されるのではないか、 と言うことです(^^)(「概念化」=「その他の諸概念=世界との関係内で把握 されること」です、念のため(^^)。つまり、ある概念1つだけでは意味がなく て、他の概念との関係付けを待って初めて「意味」が把握される、とゆーこと です(^^;)。 なお、私はこの「基準体系」が分裂することが多重人格の原理ではないかと 考えました。しかし、私は多重人格には詳しくないので、ここではその可能性 を提示するだけにとどめておきます(^^;。その意味では「基準体系」というよ り「概念体系」と言った方がわかりやすいかも知れません(^^;(よく考えると やはり同じもののよーですが(^^;)。 >「無意味」 「無意味」であるということは、「認識作用が(一瞬)停止する」と言うこ ととして私は書きました(^^;。つまり、上の方の図で言えば、[]内がすっ飛 ばされて、 知覚−>記憶 とダイレクトに取り込まれる、と言うことです(^^;。ここらへんの疑問は、で も、おそらく上の「私にとっての認識の定義」でご理解して頂けるのではない かとも思います(^^)。ただ、 >言葉にならない何かによって、「基準体系内」に分類可能 は、#1690での証明から「基準体系内に分類可能であれば、言葉(記号) で表現可能である」わけで、それはやはり無いのではないかと思います(^^;。 ただし、これは「一瞬」の間のことで、その後即座に、再び働き出す認識作用 で「分類」されてしまうはずです(^^;。でも、もちろん、「分類」されてしま った感動やギャグは、もう心をほとんど動かさないし、大笑いさせてもくれま せんね(^^)? だから、私は「無意味の一瞬」、「認識作用の停止」こそが感 動・ギャグの本質であろうと考えます(^^)(ちなみに、これは私なりの「空」 の定義でもあります(^^)。禅では、悟りを開いた瞬間その人は大爆笑すると言 いますし、ね(^^))。 >「「言葉にならない何か」という言語」 まあ、舌足らずな私が何より悪いのですが(^^;、これら一連の考察における 「言語」は「符号と、その符号の諸関係を体系化したもの」として扱われてい ます(や〜っと、最低限ではあれど的確な表現が見つかりました(^^))。だか ら、ここでは「分類体系すなわち言語」として読んでやって下さいまし(^^;。 つまり、それが何であれ「位置付けがなされた」瞬間、それはもうすでに「言 語の檻の中の小鳥」なのです(^^;。 >「作者の提示する価値付けを納得する」 これは、物語は1つの世界であり、それは当然「作者の世界観」に基づいて 構築されており、それを読むこと=受け入れることは「作者の世界観を受け入 れること」=「作者の提示する価値付けを納得すること」と言うことです(^^; (「受け入れる」という表現は不穏ですが(^^;、少なくとも「従う」という意 味ではありません(^^;。「一時的にその世界(観)を真として」受け入れる、 と言うことです(^^;)。 実際、「作者の提示する価値付け」というのは非常に微妙な場所に潜んでお り、必ずしも「テーマ」であるとは限りません(^^;。むしろそれは、「登場人 物たちの何気ない言動」の方にかなりストレートに現れます。私はアニメらん まを見て、そのことを強く感じました(^^;。 >・最良の「読者」は「作者」である。 >・「読者」が一人でも存在するのならそれは「作品」たりえる。 うにゅにゅん(^^;、私の経験では、むしろ「作者が最悪の読者である」よう な気がしないでもないですが(^^;・・・。何か、強い思い入れがある分、その 作品の「もっとも深い本質」が見えなくなる傾向が(私の場合には(^^;)よく あります(^^;。例えば、私の初期の小説、「らんまはラムで、あかねはあたる だ」と言わんばかりの対応がポロポロ見つかるのですが、私自身がそうした可 能性に気づいたのは、それらを書いてから1年以上もたった後だったりしまし た(^^;。 後者は、少しカッコつけて#^^;、 「作品は、誰かに読まれている間にのみ作品として存在する。そうでない時は 無意味な記号の集合に過ぎない」 と書いておきませう#^^;(まあ、言ってること自体はマッシャ・アッキーニさ んの定義とほとんど同じですね#^^;)。ちなみにこれから、 「誰かにとって意味ある記号の集合なら、それは『作品』と呼んで良い」 とも言えますね(^^)(モンティ・パイソンで、まさにこれを実証するようなコ ントがありました(^^)。 スコットランドの生んだ今世紀最大の詩人、アーサー・ベイン。彼の詩は生 活の中の悲哀・崇高さ・そして比類無き喜びを表現して余すところがない。そ の彼の代表作は、友人ヘンリーに宛てた手紙の中にさりげなく書かれたもので ある。 [アーサーが美しい丘をこちらへと登ってくる映像。いかにも詩人らしく、服 装には無頓着だが、その顔はあくまで厳しい] 朗読「ヘンリー、すまないが私に10ペンス貸してくれないか もう2日も飲まず食わずなんだ 今月の末にはきっと返せると思う もし都合がつかなければ5ペンスでもいいんだが」 この後、なお気高い詩人の映像にオーバーラップして友人たちへの手紙の中の 詩情豊かな名作−−「ボブ、明日までに6ペンス」だの、「トーマス、お願い だ、3ペンス」だの−−が次々と朗読される、とゆーものです(^^)。あ、なお この部分は本作とは、大まかな流れ以外は全然違います(^^;。何分かなり昔に 1度観ただけですので(^^;)。 あ、ちなみに、モンティ・パイソンはるーみっくにけっこー関係ありますヨ (^^)。そのギャグの多くが、押井うる星でパロられてるようなのです(^^)。メ ガネの演説とか、面堂家の壮絶な兄妹バトルとか、ほとんど同じギャグがモン ティ・パイソンでは実写で(英国軍の協力を得て)展開されてます(^^)。 altjin