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#1919/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 94/10/ 3 23:39 (139) 考察>RE#1918 「現代の英雄たち」です(^^) altjin ★内容 ども、マッシャ・アッキーニさん(^^)、上級者御用達ツールの品詞が使用可 能になって今はWX2の2.7に落ち着いたaltjinです(^^)。 >表題から想像していたものに反して 最初は「ヒーローの作り方」という感じで、ヒーローものを作る上での重要 な点を(私自身のためにも)抽出するつもりだったのですが、途中でその方向 性が維持出来なくなりました(^^;。というわけで、これは「私が本来書きたか った」ものにも反していたりします(^^;(従って、内容自体、私にとっても意 外なものでした)。 表題の「英雄」は多分に抽象的な単語なので、例えば「水」を「水たち」と 言わないように本来複数の(多面的な)意味を持たせたものです。「現代の英 雄一般」とでも読んでやって下さいまし(^^;。 >この思想を生んだのが他ならぬ「民主主義」だったとしたら 私の観測では、民主主義以前にそれは「日本人の体質」とすらいえる本源的 なものです。民主主義は本来「個々人の独立性」を前提としており、それが失 われれば単なる鵜合政治になってしまうことはギリシャの昔から繰り返されて いることです。そしてその理由は大概が経済的自立性の消失に求められ、一部 富民層が権力を獲得する過程でほぼ常にそれへの反乱から自滅して行っていま す。すなわち、「民主主義の維持は並み大抵のことではなく、国民1人1人の 不断の努力なしでは不可能である」ということですが、私が言いたいのは「日 本人は集団主義と民主主義を取り違えていないか、民主主義の美名の元に集団 主義という怪物が手付かずで残されてしまっているのではないか」と言うこと なのです(^^;(ちなみに、私は現在の−−安保闘争以降の−−日本は実質的に は「共和政」だと看做しています。国民の主権の行使は国家レベルではなく地 域レベルにとどまっているからです。もっとも政治学には詳しくないのでこの 区分が妥当なものかは不明ですが(^^;)。 「民主主義」とは「大衆の大衆による大衆のための政治」であり、すなわち 国民1人1人が為政者としての自覚を持って初めて成立するものです。その自 覚を持たない国民はその時点で「反民主主義者」となる極めて厳しい政治なの です(と私は考えます)。すなわち、「大衆の最大多数の意見を無批判に尊重 するもの」ではなく、「為政者として思惟するすべての人々の意見を尊重し、 全員が納得する意見を絞り出すもの」だと(その理想的あり方として)私は考 えます。 >集団主義が常に個人主義にまさるという思想・物語を欲したのは、受信者= >大衆 私はNoと言います。その思想は砂糖菓子のようなものであり、大衆にとっ ては「手安い甘美さ」をもたらすものですが、利益のために(もちろん、その 本人はそれこそが至高の思想だと考えているのでしょうが)進んでそれを流す 武器商人・麻薬商人・民族主義的アジテーターのような存在があり、彼らがそ の行き着く先を知らずに刹那的目的で広めているものだと私は考えます。民主 主義は自己批判性の確立をもって機能的に作用するものですが、日本の現状を 見るにまだ一般にはそれは確立していません。いわばまだ成長途中の子供のよ うな状態であり、そこにおいて彼らは「子供が喜ぶから」という理由だけで甘 い菓子を無制限に与えているようなものなのです。 この悪循環が戦前の大日本主義蔓延と同質のものであることに気づかれない でしょうか? だから私は「まだ戦争は終わっていない」とかつて書いたので す。日本人のこの気質は改善されるべきものであり、さもなければレミングの 行進のように再び集団自滅への道を転げ落ちていくことでしょう。「落ち始め てからではもう遅い」のです。かつて明治維新の頃、大衆は個の意識に目覚め 始めていました。明治に入ってからの学校教育でそれは失われてしまいました が、1度出来たのならもう1度出来るはずです。「戦争の芽は平和のうちに育 つ」ものであり、「その芽を抜けるのも平和のうちだけ」なのです。 「日本は今ダイエットしなければならない!!」 (別に笑いを取っているわけではない(^^;!!) >多数優先 私自身はこの「多数決の原理」には反対です(^^;。なぜなら、「国政に対す る知識・世界の行き着く先に対する洞察」が、それに優れている人のものとま ったく無知な人のものとが相殺してしまい、結局は「最悪に中途半端な策」が 採用されるのが常だからです。すなわち、「それは本来的に政治不信しかもた らさない」ものであり、知性に満ちた現代人の取るべき裁決手段とはとうてい 思えません。いわゆる「悪平等」の最たるものです(お互いに勝手を知った少 数の人々の間では有効な手段ですが、「見えない大衆」相手には危険極まりな い自殺行為だと私は考えます)。戦後の日本政治が良い例です。それを徹底し たギリシャはまさにそのために衰退し、そのような事態が発生した時独裁官に すべてを委ねたローマは長く生き延びました。理念の是非はともかく、現実に おいて有効なのはやはり「政治に優れた人々を中心とし、国民の議会はそのチ ェック機関にとどめる」方式です(現代のアメリカがまさにこれです。別にア メリカの政治を優れたものと言うつもりはないですが(^^;)。なぜか? 「彼らは生っ粋の政治家であり、一部層の利益に依存しない」からです(も ちろん、これは理念上の話です。実際には官僚やら巨大資本家やらに干渉され るのが常ですが、しかし大抵彼ら−−その特別な政治家たち−−は政治的名声 こそが彼らの勲章であるゆえにそれを歓迎しません。そこにストッパーが存在 します。この点で、汚職政治にどうしてもなってしまう多数決制よりもより「 人間的」なのです)。 過去もっとも民主的な法を持っていたワイマール共和国が結果として生み出 したのはヒトラーという怪物でした。確かにマッシャ・アッキーニさんの指摘 される通り、また私がくどくどと書いたように、「民主主義と全体主義は皮1 枚でつながっている」ものなのです。多数決という制度を取る以上、国民1人 1人が「常に目覚めていなければならない」、その代償との引き換えなしに民 主主義を理想として受け入れ、語るのは非常に危険なことだと私は考えます。 >「誰が」「どこで」 以上に書いたように、 「民主主義を良しとする国民1人1人」 が 「ここで、そこで、そしてすべてのところで」 やらねばなりません。さもなくば多数決制を限定して大統領制に移行するか、 です。私は様々な出来事を通じて、日本人の間に救い難い非常に強い「他者依 存性」があるのを痛感しています。 そうです、マッシャ・アッキーニさんが指摘されたように、今はもうすでに 「その子供たちが大人になり、次の子供たちのためにその思想を、その終着点 に気づかずに再生産する」時代に入っています。個性の急激な希薄化はその最 たる兆候です(具体的には、「パロディの再パロディ」などがあげられます。 これが「集団内部だけのエコー」であることに御注意下さい。またこれから、 いつ頃からその時代に入ったのかも薄々確認出来ます)。 >「罪」 その通り、「あいつが悪者だっ!」と誰それをつるし上げれば万事解決する ものではありません。これはいわば「日本人の原罪」なのです。また、最初の 方で触れたように経済システムに由来するものではなく、「歴史」に由来する ものです(私は今の経済システムは、そのような他者依存的な日本の前提共同 体が思想の仮面なく形体化したものだと考えます。日本においてはそれほどま でに「集団の力」が強いのであり、だからこそ私は「むしろ個であれ」と強調 するのです)。 この前提共同体を変えるにはどうすれば良いのか? 国民1人1人がそれに 気づき「個」を各々が実現すること、またそのためにすでに気づいた人は進ん でそれを分析し、警告すること、「他者依存性」から抜け出すことは実際極め て難しいことです(ラジニーシ和尚の努力の大半はこれに費やされました。 「ただあるがままにある、それが瞑想だ」 「で、どうやってあるがままにあれば良いのですか?」 「今言っただろう、ハウ・ツーを捨てることだと」 「わかりました、とにかくやってみます」 「瞑想のうちに『ある』かさもなくば『ない』だ。『やる』を捨てなさい、さ もなければ瞑想のことは忘れた方がいい、あんたには向いてない」)。 >大きな変化 徐々に、徐々に、100匹目のサルがいつかは出るでしょう、それだけが唯 一の望み、その意味ではこの企ては極めて「ドン・キホーテ的な夢想」です。 保証もまた他者依存性を生むもの、すべての保証は例の砂糖菓子の変奏です。 ゆえに「何1つ保証はされないし、してはいけない」、従ってこれが「ふるい 分け」です。私は説得はしません、なぜなら「説得されて変わるような信念は たやすく崩れる」からです。「天国を選ぶも地獄を選ぶもあなたの自由、他人 のせいにしても苦しむのは結局あなた自身、神様を呼んでももう手遅れ、でも 自分自身を呼べばあなたはいつも今ここにいる、あなた自身で天国を作れば良 いこと」なわけです(^^)。 >P.S. 1つの作品は異なる前提共同体レベルでは異なる意味を持ちます(^^)。実際 各々は違う意味・文脈で扱われています、ところで 「ブラフ」 って何ですか(^^;? altjin