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#1956/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 94/11/ 9 23: 0 ( 55) 考察>RE#1953 完全な決定は不可能だそうです(^^; altjin ★内容 ども、HRさん(^^)。 現在の医学では、男か女かを完全に決定するのは出来ないのです(^^;。染色 体がXX(女性)なのに肉体構造は男性の例やその逆も報告されていますし、 精巣も卵巣もともに完備した例も報告されています。能の性差の問題もあり、 それで最終的には「本人の意志」がやはり左右するようです(^^;。 「性」を除外視した人格は有り得るのか? それを「ある」とするのがHR さんのお考えであり、「ない」とするのが私の考えなわけですが、ここで私は 「一般的な人々」を念頭に置いていることにご注意下さい(^^;。私自身はより 正確には性を「越えた」人格はあると考えています(いわゆる「悟りの境地」 では、むしろ「(内なる)男と女が1つになって初めて可能である」としてい るのです)。ただ、そのような「人格」を獲得するには、「男であるがゆえの 盲点」「女であるがゆえの盲点」をしっかり見定める必要がある、私はそう考 えているのです(とは言っても私はらんま1/2がそこまで行くとは思っては いませんが(^^;。それは読者に努力を要請してしまいますから(^^;)。 分類の基準は他にもある、とは言っても、HRさんが例にあげたすべては、 「後天的に改善可能」であるものであり、また「基準点を任意に設定出来る、 いわば『相対的』基準」です。また、それが意識される場面も限定されていま す。逆にいえば、それによる影響を「容易に意識出来る」のです。ところが、 「男と女」という基準はそのような「意識の圏内から取り外し可能なもの」で はなく、「後天的に改善不可能(私は「意識の性差」を問題にしています)」 であり、「基準点は『絶対的』」、そして何を行う時も「暗黙の前提」として 厳に存在し続けるものなのです。それはまた「(通常)先天的」なものである がためにほとんど常に「人格形成」の基礎的「足場」となってしまっており、 しかし特に「男」の場合は自己の性に肯定的なためにほとんどまったくそれか ら生じる差が意識されない、それが私の問題とするところなのです。 なぜ「女の子の男装的ズボン姿」は一般に許され、「男の子の女装的スカー ト姿」はいつまでたってもそうならないのか? 私の考えではそれは反「男尊 女卑」だからです。HRさんの説が一般的なものなら、「男の子の女装的スカー ト姿」が日常風景の一部となってしかるべきだと思われないでしょうか(^^;? この「無意識的男尊女卑」がある限り、私には「性別は単なる個性」だとはど うしても言えません(^^;。 「判断し受け入れる」のが「男という性を超越した」HRさんであるのなら 私にはまったく問題はありません。でも、もしその享受の受け皿となる価値観 が「男特有のもの」だったとしたら? 唯物的視点さえも「性差」の影響下に あったとしたら? そして私の考えでは「おそらく非常に高い可能性」でそう なのです(^^;。読むこと、理解することは自己の内なる「価値体系」と照らし 合わせる行為です。そして私の言いたいことは、その価値体系自体が男と女と では埋め難い大きな差がある(もちろん、より上位的・日常的には共通する部 分もありますが(^^;。しかし情緒的価値の大部分は私は性差の影響下にあると 考えています)、と言うことなのです。 通常作品を読むに当たっては、読者は無意識的に「キャラの次に取る行動を 予想」しています。そしてその時、性差は非常に大きな判断要素となります。 HRさんのお考え通りなら、HRさんは常に「乱馬が男でも女でもないいわゆ る『人間』の場合」「乱馬を男とする場合」「乱馬を女とする場合」の最低三 通りでその「無意識的予想」を行っていることになるのですが、この点はその 通りでしょうか(^^;? 私が「乱馬は元来女である」と強調してやまないのは その問題があるからなのです(^^;。 altjin