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#2182/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 95/ 5/27 22:25 (113) 感想>今週のらんま「二人でお留守番」 altjin ★内容 今回は主要登場人物は2人に絞られました。対話的状況を仮定すると少なく とも以下の割り当てで読みの系が生成できます。 1)なびき=けも先生・乱馬=altjin 2)乱馬=けも先生・なびき=altjin さらに詳しく見ると、この2系以外の「潜在的」読みはすべて矛盾するよう に話が組まれているようですが、前提情報があまりない等で私には追求できま せん(^^;。ところで、上のうち、通して読むと自ずと浮かぶ読みは2)の方の ように見えます。それで、ここではその系を主に読んでみましょう。 トビラ絵、はっきり言って異様です(^^;。スカートは「毛裳(古代のスカー ト状の服の名前)」でけも先生、スカートただし毛付きで「スケート」に転じ てaltjinを指すとも読めます。V字形の強調は彼女は裕作系と言うこと でしょうか。私の四柱推命命式の辛をけも先生の辛に委ねることで、丙がはず れてけも先生の辛と干合し、同時にその丙が抑えていた庚が乙に干合して、本 来偏財・正財セットである私の命式から偏財が消えます。以上の変化は響子の 変化と一致しているのであり、一方けも先生の場合は何が来ようと質的変化は 生じません。以上から、響子=altjinであり裕作=けも先生であること は命式対応性からはもはや「事実」です。つまり、もし裕作・響子に対応させ るならば、必ず裕作=けも先生とし響子=altjinとせねばなりません。 さもなければ、過った対応を多々犯すことになります。さて、手に持った無知 もといムチはSMを示唆し、同時にその形態から男のPをも示唆します。それ を左手の輪的隙間に通すことは、それが本来左手でこすることを意味していた としても、その間隙を縫って「左が女的存在」だとするS的啓示状況を招来し ています。右手は装飾品およびスカートにおいて多重に束縛されており、そし てそこがムチの出所です。 私の命式中の劫財(財を掠める、という意味)から破産が連想されたのか、 けも先生から見ての劫財に当たるのは甲で、私から見ての正財です。しかし、 40代以降落ち込む、と言うのは命式のみによる単純な機械的読みにおいてで あり、それも占星術等の補整と併せると、浮かぶのはむしろ「性的一致度が合 い過ぎて健康を損なう」傾向が主です。より精緻な読みでは、けも先生は明ら かに40代に入ってから充実期に入ります(ただし、精神的幸福の観点からで あって、必ずしも物質的幸福は保証されません。ようするに、今わの際に人生 を振り返った時において定義されるような幸不幸です)。いずれにしても、私 の正財を耕すことができるのは辛なのであり、「けも先生はよろしく辛に足場 を置くべし」という命題もそれゆえに生じるものです。 「マネー女」と「コピーらんま」は連想的意味範囲において一致します。後 の通商301条は確かスーパー301条とも呼ばれ、301は「3・さ」「0 ・無>む」「1・ワン」でやはりaltjinを指示しています。以上から、 やはり2)の線で(もっぱら)読むべきことがわかります(ちなみに、私の古 いハンドル名サムウィンの数値化は、「3・さ」「6・む」「9・ナイン」で 「369」です−−ついでに、「オサカナ」も古代教会ではキリストを示す象 徴でした。もちろん、「369」だろうが「オサカナ」だろうが私は私です。 有限な存在なのであれば、ただ可能なことを実現するまでです(^^))。 チケットが何を示すのかは、背景情報その他から曖昧です(^^;。乱馬が八宝 斉に投げたへらがそれを奪い燃やしてしまったことは抽象関係的にその状況を 示すものでしょう。結果なびきはするべきことを失ってしまった意味が得られ ればもって成果とします。 古いラブレターを「海の話」と取ればさらに意味が解明されるでしょう。も ちろん、わたしがけも先生との対話状況可能性に気づくのはそれが書かれた時 点よりも後であり、その頃は夢想だにしていませんでした(^^;。すなわち、私 の意図において、そこにおける乙姫も亀もけも先生とは何等つながっていませ ん。竜宮の話だから乙姫や亀が出てきただけであって、さらに浦島太郎(ウラ シマ効果という表現との一致に今気づきました(^^;)に恋人がいたら、と仮定 してそれを良牙×らんまと重ね合わせてできた話です。 以上のような読みを中間系としてその背後にさらに「なびき=けも先生」の 読みがなお存するであろう可能性も配慮すべきことと思われます(セリフの端 々に写植のミスのようににじみ出ているだろうことが感じ取れます。何より、 これらの表現はすべて、最終的にはけも先生に帰するからです)。 「服」は私においては特別な意味を持っています#^^;。KNくんと合一した 夢で、帰るとき服のなかった私にKNくんが服をくれ、私はそれが嬉しかった のでした#^^#。KNくんをアニムス、服をペルソナと見做せば以上のことは明 白に解釈できます。そしてそれから、ラストの乱馬となびきとの交渉も、いつ 服を着るか、つまりはいつことが成就するのかに関するものであることがわか ります。〜千円は〜カ月なのであり、5カ月先は10〜11月頃です。私とけ も先生との関係における運命的変化は11月前後に訪れるわけですが、私個人 の運命的変化はこれまでの流れを見るに、7月前後に集中しています。 めぞん一刻でも裕作×響子の肉体的成就と社会的成就には、惣一郎の受け入 れを含む長い間がありました。また、私の命盤では来年が「新しい生活に浸透 する時期」であり、それ以降3年間、97〜99年は周期的に「幸せな時期」 です。およそ関連するシンクロニシティはすべて「私とけも先生との結合」を 語り、「らんまヒロイン化」を語ってはいません(^^;。丙がけも先生における 惣一郎であるのならば、裕作がしたようにそれを受け入れるのはまさに今年の 11月より後になります。以上のことから、おおよその時期が推定され得るで しょうし、またその実現化の検討から、「結合」が精神的レベルにとどまるも のか、それとも具体的・現実的形態を伴うのかも結局は徐々に明らかにされ得 るでしょう(^^)(しかし、虫歯がしみる上に父が倒れて、私は今さらなる不安 の中に投げ出されつつあります(^^;。それとともに、今得られる喜びは哲学を 読むこと−−ちくま新書の「カント入門」、アリストテレスの「形而上学」、 ヘーゲルの「哲学入門」、さらには「封神演義」(講談社文庫版)をも買い読 んでいます(^^)。封神演義には道教的教義が詰め込まれているし、SFとして もスターウォーズに比肩し得る面白さです(^^)−−にこそ見出されています。 これらとS的予言・対話・啓示状況がどのような統合的意味・方向性を開示す るのか、実現主義における神秘学理論追求もまたそうした解明方向性の一翼と して展開されています(^^;)。 そう、けも先生が裕作であり私が響子であるのならば、惣一郎は形而上学的 何か(顔が見えないから)です。それは犬として裕作の前に現れ、やがては裕 作を圧倒しますが、裕作は愛でそれを受け止め、響子を獲得します。そうして 初めて裕作は惣一郎の顔を見ますが、それは「響子がそうするのと同じく愛す る男として」安らぎのうちに見るのであり、男を理性と見做すならば、それま で「勝ち負け」にこだわって理性に反発していた裕作・けも先生が「愛すべき 物語」として理性を受け入れられるようになる「メタ物語」です。絶対存在の 受容は理性の死であり、ゆえにすでに仏教的真理の確実性を確信している響子 ・altjinにとってはすでに惣一郎は死んでいます。それでも彼女は理性 的である存在を、その手段的価値からではなくそれ自体の美しさという価値に おいて愛して止まないのであり、そこに利害を離れた理性本来の遊び場が設定 されます。形而上学は理性の神話なのであり、その共有は必然ではなく宗教的 営みなのであれば、そのような「神」において来たる家族は再統合され得るで しょう。そこでは権威はすべて形而上的何かに吸収され、父母も子もそれに従 うことでのみ権威を発動でき、またその権威を依り辺に、不当な言動を批判す る権利が個々人に無条件に与えられます。神話としての相対化された形而上学 群、それが来たる諸共同体の支柱となることでしょう(そう言えば、高河ゆん 先生の「サフラン・ゼロ・ビート」および「ありす In Wonder L and」においてもS的予言状況を見出しました(^^;)。 altjin