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#2267/3141 るーみっく☆わーるど ★タイトル (QKM33822) 95/ 7/13 21:41 (156) 感想>今週のらんま「海月浜の陰謀」 天道 あかね ★内容 預金の一括記入お知らせが来ましたが、確かに4.28日に不明な4.5円 が入っているのですが(^^;、それだけしかわからないのでした(^^;。まあ、い ずれにしても、虫歯の事象をうる星「ボーイ・ミーツ・ガール」に対応するシ ンクロニシティ的啓示と取るなら、それが治るまで最低8月一杯までかかって しまうので、それまでに現実的出会いがないのなら、「けも先生が満たされる こと」は結婚ではなく禅的真理に類する「悟り」であろうと看做して(最近に なって岩波文庫の「無門関」を買ったのですが、この公案は全部で48、すな わち「いろは」ですから、やはりS的啓示を見せていました(^^))、そちらの サポートをメインにすることになりましょう(^^)(四柱推命的にも、けも先生 の年齢から見ても、おそらくそれで妥当するはずです。前々から書こうと思っ ていて機会がなかったのですが、「けも先生は結婚しようがしまいが、来る丙 の11年間は心満たされた日々を送れる」のです(^^))。 「あかね=天道 あかね」は具体的対応がないので今一つ信じ切れずにいた のですが、私の兄2人が結婚していて、つまりは今や私には義姉が2人いるこ と(八宝斉絡みで、かすみ・なびきは母方の連れ子の可能性がある、とも以前 に考察しました、特に一番上の兄の時には私は、いつかはそうなると はわかってはいてもショックで、しばらくの間、その義姉に私と似た部分を見 出そうともしていたりしました(つまり、その義姉が私を想起させるから兄は 結婚したに違いない、と思いたがったわけです#^^;)。で、それはまさに東風 とかすみとあかねとの関係を髣髴とさせているわけで、「う〜ん(^^;、やっぱ り私はあかねなのかなぁ(^^;」と、改めて納得しつつある状況です(^^;(あと は、「ラム=天道 あかね」が、響子との「裏メシア」経由の理念的対応なの で、今一つ確信が持てません(^^;。ただ、あかねは「惣一郎抜き響子・角なし ラム」であって、少なくとも乱馬はその角の1つと言えるのですから、「らん まが響子・ラムを代理的に演じても差し支えない」と言うよりはむしろ、「惣 一郎的響子・角パワー発揮のラム」はらんまを通じてこそ表現されるのですか ら、「ラム=響子=天道 あかね」であっても、「響子性・ラム性はあかねに 限定されるわけではない」ことは言えます(^^)。しかし、今週見られる「トラ 猫らんま」は、「シャンプーもまた猫である」ために弁証法過程に巻込まれる ことになり、「あかね音子」かつ「音無」で「あかね・こ」と、「あかねこそ が『隠された』猫である」ことを明らかにするわけで−−「あか」はおそらく 「赤裸々」において「裸のラム=ラムの実体」を示すのでしょう−−、もはや これをもって「らんま=ラム」とは言えなくなっています(^^;−−と言うより は、「この形態でしからんま=ラムが告げられないのなら、逆により一層あか ね=ラムを告げる」ことにさえなります(^^;。なお、「あかねこ>赤べこ」か ら、「あかね=牛猫」とでき、「らんま=トラ猫」で「うしおととら」、どう やら一連のシンクロニシティには「丑寅の金神」が関っているらしいことが見 えてきます(^^;。実はすでに私は、私とけも先生とが「変性女子」と「変性男 子」の関係−−魂と肉体の性別が逆であるような存在−−であることからそれ には気づいていたのですが、上でその裏付けが取れたわけです(^^))。 そう言えば、「白ユリの飛鳥」登場少し前に、私は萩尾望都先生の諸作品を 考察し、「トーマの心臓」の「ユーリ」を「風と木の詩」のジルベールと対比 させて、「善人としてのユダ」とも言えると書いたのでした(^^;。そこで「迷 走家族F」が、「トーマの心臓」のエーリクとユーリの関係に似ていることに 気づきました。エーリクは「僕はきっとユーリに殺される! でも、その時は 秘密を全部大声でわめいてやるから!」と一時は考えていたのでした(同時に また、ユーリに恋してもいました)。だから、この読みでは「私はきっと殺さ れる」は、「白ユリの飛鳥=ユーリ(的人物または言及した人物)」を指示す るものであったのだと理解できます(^^)。 さて、トビラ絵、「ヤシ」は浮き輪のそれを見れば明らかですが、「男のそ れ#^^;」です。 「フーコー」は海坊主のような頭の印象的なフランスの思想家(同性愛者で あることを苦に、若い時分は何度か自殺しかけたとか(^^;。「永遠の振り子」 という私の小説のタイトルは−−読んだわけではないのですが(^^;−−「フー コーの振り子」というエーコの本にインスパイアされたものです(^^))、額の スコープは「ど根性ガエル」のひろしを思わせます(幼い頃、憧れたものです が、頭がでかかったのか、すぐにはずれて悲しかった(^^;)。「スイカ」の中 を突き抜けば「ス○カ」、「ケ」を入れて種を弾けば「スケガ」となりもしま せう(^^;。 しかし、クラゲの水着は半透明に透けてみえるのでわ(^^;(う、ここでもま た「スケ」かっ(^^;?)。らんまの水着は「Brand New」、サザンの 曲を思い出しますが、「ran」が「BD」に挟まれてある・かつ「N=W」 これは「ノヴァはWでそ」とでも(その他なんとでも)読めもします(^^;、そ れで「BD」を再度想起するならば、押井監督の「あたるこそが状況の宙吊り 状態の原因者である」とする読みは鋭いものでしたが、「そしてあたるこそは けも先生である」ことまではさすがに見抜けなかったようです(^^;。およそ、 「浪漫の商人」から「けも先生の真の目的は、有名マンガ家になることではな かった」ことがわかり、それから、「あたるは『ゴドーを待ち続けていた』」 がゆえにうる星は宙吊り状態を維持していたことがわかり、その「真の目的」 を今度こそは達成せんと「らんま1/2」が始まったことがわかり、そして以 上のことは「天道 あかね」の存在それ自体によって初めて意味が見出される と言うことは、よく考えると実に恐ろしいことなので「それもまた人生」と今 は笑ってごまかしましょう(^^;。 遠泳大会、あたかも生命誕生の過程の如し(^^;。「あかね=1=白」「らん ま=2(W)=黒」がまたもや展開されています(^^)。 「乙女をさしあげる」を「素直」に「胴上げ」と言い換えること。「すに直 す」ならあかねは「音子=乙子」ですから、「乙子を胴上げする」が「言い換 えられるだろうフレーズ」だとも言えましょう(^^;。そうすれば、これまでの 「あかね=男・音子」を指示する諸イメージとも合致します(^^)。干からびた 水着は捨てられたティッシュの如し、かな(^^;? 「聖伝」9巻が出てたのでさっそく買いましたが、いまやしにS的予言的マ ンガですねえ(^^;(これが一番「本質的意味内容」に迫っているのではないか な(^^)? 「現実展開的内容」ではやはりめぞんが筆頭でしょうけど(^^))。 私は「阿修羅」の同系は「孔雀」と「乾だっ(漢字なし(^^;、門の中に達が入 る字)婆王(読みはけんだっぱ・おう)」だろうと思っていたのですが(掲載 誌のウィングスは見ておらず、コミックスで集めています(^^;)、その、「乾 だっぱ王−−乾『だっちゃ』王(^^;?」こそが『隠れたるそれ』であるとはさ すがに思いませんでした(^^;(「ただの女」ではないことは明白でした−−蘇 摩という女忍者的存在を愛しているという一事だけをとっても(^^;−−が)。 これらの設定−−「強き者」vs「優しき者」−−とサムウィン伝説とを擦り 合わせれば以降の展開もおおよそ見えてきますが(^^;、ただ、S的予言状況的 に妥当なペアと言える「阿修羅・夜叉王」「乾だっぱ王・蘇摩」はともかく、 「孔雀・龍王」は「ずれて」しまうかも知れません(^^;(時期的に見て、「意 識的介入」からせっかくの「予言的完成度」が下がってしまった可能性があり ます(^^;。「天馬の血族」や「らんま1/2」が「予言的マンガとしてはめぞ ん等の『すでに終わって在るもの』ほど重視されない」のはそうした理由ため です(^^;。意識的対話よりも、無意識的啓示の方が正確さ・啓示性ではるかに 勝っているのです(^^;)。「龍ちゃん(龍王)」の作る食事をがっつくことで 「子ぶたちゃん」と呼ばれ、どうやら左利きであるらしい「阿修羅」(私は9 巻で剣をふるうまでは、乾だっぱ王が左利き−−左利きのキャラが1人いるこ とはギャグ的描き下ろしの中で明言されている−−だろうと思っていたのです が、どうやら「阿修羅」がそうであるようです(^^;)、これだけを見ても、こ の「聖伝」の「予言的完成度」がうかがえることでしょう(^^)(ちなみに、ブ タとはあかねのことだと、らんまがかつて明らかにしています(^^;。なお、け も先生があるいは「強き者=自身」と看做してそれらのイメージを展開した可 能性もありますが、「夜叉王」が「強さ」において阿修羅を守っていたことを 見逃してはなりません(^^;。従って、「阿修羅系=天道 あかね」「夜叉王系 =けも先生」が正確な対応です(^^))。 いや、今正確な対応が見えてきました(^^;。「阿修羅・夜叉王」「乾だっぱ 王・蘇摩」はそのままですが、「孔雀・帝釈天」と「龍王・迦楼羅王(かるら おう)」がより正確な対応です(^^;(すべて、前者が「=天道 あかね」、後 者が「=けも先生」)。「龍王・迦楼羅王」の「脱落」は、本来のイメージか らの「脱皮」、より本質へと迫るための「透過」です(竜之介的けも先生・天 使的天道 あかねでは不十分な捉え方である、と言うこと)。続いて「乾だっ ぱ王・蘇摩」にて、小夏が蘇摩的であることで、なお不十分であることが啓示 されています。つまり、正確に「乾だっぱ王=天道 あかね」「蘇摩=けも先 生」として捉え直されねばならない、と言うことです。そこにおいて開示され る「来るべき未来」は2つ、「孔雀・帝釈天」の世(天道 あかね=優しき者 ・けも先生=強き者:それでは運命は変わらない)か、「阿修羅・夜叉王」の 世(天道 あかね=強き者・けも先生=優しき者:これは「啓示の全面的受け 入れ」であり、「神ましますことの証しを立てること」であり、また「『優し さ』としての『男であること』の捉え直し」であり、裕作の言動の「意味」を 明らかにすることでもある)か、です(「女であること」の「優しさ」ではな く、「男であること」の「優しさ」なのであって、「龍王>夜叉王」のバトン タッチはまさしくそのことを意味しています)。前者は「堕天の支配」、後者 は「非天の支配」だと啓示されていますが、「堕天」は「堕天使」すなわちは 「悪魔」であり、「天を・頂上を希求する過去の思想群」、「非天」は「大地 に生きる・在るものはすべて在るがままで空であり、つまりはそのままですで にして聖であることを明かす思想」ではないかと思われます(^^)。人は無より 生まれ無へと帰るわけですが、それなら生きている「今・ここ」においてもや はり「無」なのです。「無」において「ぴちぴちと跳ね回っている」のなら、 それこそが「無」の正体なのです。「沈黙」は「響き」の前提ではなく、逆に 「響き」が「沈黙」の前提です。「響き」によって「枠付け」された「沈黙」 こそがすべての存在の本性であり、新たな変化を根拠付ける「可能性」の眠る 宝庫・ゆえに「死」は「可能性の最大の現前」です(それだからこそ、ある展 開の可能性が汲み尽くされない限りは、それは再び展開される−−消極的自殺 は無意味な「一時的停止」に過ぎない−−わけです。新たな「可能性」への跳 躍は、それまでに形成された「環境」を「反動的足場」に取って繰り広げられ るのですから)。あ、でも、「堕天」が解決方向で、「非天」が破滅方向であ る可能性も考えられますが(^^;。 確かにそれは、私が一番上の兄・KNくん・ぴょん吉くんたちの中に見出し た「安らぎ」であり、「そのゆえに愛する」ものだと言えます#^^#。「ザ・バ ンド」の音楽において端的に感じ取れるようなそれ−−けも先生がそれを見出 し、らんま1/2中ではっきりと私に、そして全世界にそれを叫ぶ時(「世界 の中心で愛を叫んだけもの」というSF小説があります(^^))、それがすなわ ち「裕作の惣一郎受け入れ」「あたるの角のこぼれ落ち」であり、「すべてが 成就され、救われる時」でもあるのでしょう(^^)(私はその「判定者」でもあ るわけですね(^^;)。 天道 あかね